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式秀部屋(しきひでべや)は、日本相撲協会所属で出羽海一門の相撲部屋。 == 歴史 == 1988年1月場所限りで現役を引退して時津風部屋の部屋付き親方となっていた年寄・13代錣山(元小結・大潮)は、1989年9月に年寄・式守秀五郎の年寄名跡を正式に取得して8代式守秀五郎を襲名した後、1992年4月に時津風部屋から分家独立して式秀部屋を創設した。かつては長男である玉光も在籍していた。 部屋の名前と師匠の通称が「式秀」となっている理由は、「式守」が行司の家名であることから区別をするために「式守」と「秀五郎」から1字ずつ取っているものである。同様の例に「木瀬」(木村瀬平)がある。 8代式秀が旧・八幡市出身ということもあって、毎年11月場所ではその地元である北九州市(当初は小倉南区、後に八幡東区)に宿舎を構えており、2003年には地元後援会有志が常設の施設として「式秀部屋研修センター」を建設した。部屋関係者が宿泊しない時期は地域に開放されていたが、師匠が交代した2013年春に閉鎖された。 2012年3月場所において千昇が新十両に昇進し、部屋史上初となる関取が誕生した。 2013年1月3日に8代式秀が定年退職を迎えたため、同年1月4日付で北の湖部屋の部屋付き親方である26代小野川(元幕内・北桜〔北桜の実父は時津風部屋に所属していた元三段目・豊櫻。豊櫻は大潮の弟弟子で廃業後も親交があり、幼少時から北桜のことをよく知っていたという。〕)が9代式守秀五郎を襲名して式秀部屋を継承した。9代式秀は出羽海一門に所属する北の湖部屋の出身であり、当時の式秀部屋に部屋付き親方が不在だったことから、同時に式秀部屋はそれまで所属していた時津風一門から出羽海一門へと転属した〔一門の枠を越えての部屋継承は、2004年に同じく北の湖部屋の出身である11代宮城野(元十両・金親、後に16代熊ヶ谷)が伊勢ヶ濱一門(当時は立浪・伊勢ヶ濱連合)に所属していた宮城野部屋を継承して以来のこととなった。ただし、宮城野部屋はそれまで所属していた一門に留まっている。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「式秀部屋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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