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張 三豊(ちょう さんぽう、、、、1247年 - ?)は、元・明代に生きた遼東(遼寧省)出身の道士、仙人。字は君宝、幼名は全一。伝説的な人物で、存在したかどうかは定かでない。 しかし、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度である考証学の祖である黄宗羲が記した『王征南墓志銘』に張三豊のことを記録しており、その中で内家拳の祖であるなどを記していることから、伝説は多いが内家拳の祖として確かに実在したとする説もある。 伝説では、少林寺で修行した後、武当山(湖北省十堰市)で武当派をつくり、太極拳を創設したとされる。 ==生涯== 登場する歴史資料は『明史』『三豊全集』『広陽雑記』『諸真宗派総簿』『三迤随筆』『淮城夜語•張玄素入点蒼』等。 幼少の頃より、才知が抜群で経典•歴史に精通しており、一度目に通したものはすぐ暗唱できた。体や耳が大きく、ひげが矛のようだった。最初に碧落宮白雲長老に師事し、人格を磨き修養を積んでから、全真教の道士丘処機〔丘処機は1227年に没しているので、伝説上の逸話といえる〕に学んだという。 1314年(延佑元年)、67歳になったとき、火龍真人に道教を学び不老長寿の術を得る。それから、宝鶏(陝西省)金夢山で道教を研究し「三峰道人」と称したが、「三峰」という言葉があまり縁起がよくなかったので、後に「三豊」に改名した。 1324年(泰定元年)、77歳になった張三豊は武当山に到達。玉虚台で太極剣を研究し、さらに剛と柔の「両儀四象」で太極拳の三功(内丹太極剣三百八十四招、両儀太極拳三百八十四拳、陰陽拳)を創造した。この成功により仙人となる。 仙人になった張三豊は、130歳のときに一度息を引き取るが、埋葬される段階でまた生き返る。 張三豊の名声は朝廷に伝わり、1385年(洪武17年)、明の洪武帝(朱元璋)は137歳になった張三豊を招聘するも辞退される。さらに1417年(永楽14年)に、永楽帝が168歳の張三豊を招聘するがまたも辞退された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張三豊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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