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張 占魁(ちょう せんかい)は中華民国の武術家。字は兆東。 李存義、薛顛らなどと共に、天津においての形意拳・八卦掌の普及に貢献が大であった。 張は若年より武術を好み、初学を少林大紅拳、後に秘宗拳を学ぶ。性格は大胆不敵、体格は偉丈夫であった。恵まれた体格から強烈に繰出される大技から、人々に「砕天覇」・「閃電手」・「雷電手」などの異名で呼ばれたともいう(尚済氏の著作「形意拳技撃術」によれば、張占魁の得意技は「連環劈」であったとある)。 生家は農業を営んでいたが、河北地方一帯に発生した大旱魃により生活に困窮し、北平(北京)、天津などを遊歴し、後に天津に定着して果物販売業を営む。 張占魁20歳の時、李存義、田静傑、耿誠真などと知遇を得、その縁で劉奇蘭を拝して形意拳を学ぶ。後に1881年、李存義の紹介により北京で程廷華との友好を結び、八卦掌開祖、董海川の門下ともなる(実伝は程廷華から教わったとも言われている)。この時張は李存義、劉鳳春、尹徳安(尹福)らに呼びかけ、程廷華、田静傑、耿誠真などと共に七兄弟の盟を結ぶ。 程廷華の死後、張は天津に帰り営務処頭領(捕盗官の長)の職など、警備関係の仕事に従事し、数多くの匪賊を捉えたという。1911年には李存義の呼びかけにより天津中華武士会にも参加し、自身も天津に武館を設け数多くの門弟に教授する。張の弟子は甚だ多く、一説によると張の教えた門弟の数はゆうに数千人ともいう。 晩年僧籍となり仏門に入るが、1938年食道癌により逝去した。張の弟子で著名な者は姜容樵、李剣秋などがよく知られている。また日本に初めて形意拳・八卦掌・太極拳の本格的な教授をはじめた王樹金は、この張占魁の関門弟子(最後の拝師弟子)であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張占魁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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