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張 承奉(ちょう しょうほう、Zhang Cheng-feng、?-?)は、唐朝末年から五代初期の帰義軍節度使であり、張議潮の孫、張淮鼎の子供である。 景福元年(892年)、張淮鼎が死ぬと、索勛は、その子供である張承奉を立てずに、自分が帰義軍節度使になってしまった。 これが、張議潮の第十四女、李明振の妻張氏(索勛の義理の姉妹)の不満を引き起こし、乾寧元年(894年)、三人の子供を派遣して、索勛を殺して、張承奉を立てて帰義軍節度使とした。 張承奉は、李氏家族の支配を受けながら、唐朝と後梁の承認を受けることができた(光化三年八月十四日:900年9月10日)〔『旧唐書巻20上「昭宗本紀」』:己巳,制前歸義軍節度副使、權知兵馬留後、銀青光禄大夫、檢校國子祭酒、監察御史、上柱國張承奉爲檢校左散騎常侍,兼沙州刺史、御史大夫,充歸義節度、瓜沙伊西等州觀察處置押蕃落等使。〕 朱温が死ぬと、張承奉は自ら「西漢白衣天子」と称した。このとき、帰義軍は、ただ、瓜・沙の二州を支配しているだけであったので、甘州ウイグル王国に臣と称していた。 張承奉の死後、帰義軍は、曹議金に率いられることとなった。 ==参考文献== 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張承奉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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