|
張 松(ちょう しょう、? - 212年)は、中国後漢末期の政治家。字は子喬(『三国志演義』では永年)。益州蜀郡の人。兄は張粛。子(または甥)は張表(「馬忠伝」)。『三国志』蜀志『劉二牧伝』『先主伝』に記述がある。 == 生涯 == 劉璋に仕え、別駕まで昇進した。 劉璋は曹操が荊州を降し、関中や漢中をも支配下においたことを聞くと、張魯が曹操と組んで成都へ侵攻することを恐れ、曹操への使者を三回に分けて出し、帰服の意志を伝えさせた。先の二名の使者は歓迎を受けた。しかし三度目に赴いた張松は、赤壁の戦いの直前で曹操が慢心していたため、冷たく扱われた。このため張松は腹を立て、劉璋には曹操と絶交し、劉備と結ぶよう進言した(「先主伝」・「劉璋伝」・『漢晋春秋』)。 張松は法正と共に劉備の元へ使者として赴いた。「先主伝」が引く『呉書』によると、法正と共に劉備から手厚い歓待を受けた張松は、益州の軍備や地理について詳しく語り、地図を描いて説明したとある。 なお、『三国志』先主伝の注に引く『益部耆旧雑記』によれば、張松は小男で勝手に振舞うところがあったが、識見や判断力には優れていたとある。曹操の元に使者として赴いた時、曹操から冷遇されたが、楊修には評価された。楊修が張松に曹操が編纂した兵法書を見せると、張松は宴会時にそれを全て読み、すぐに暗唱して見せた。以前から楊修は張松を評価していたが、このことでさらに高く評価するようになった。 益州に入った劉備は劉璋に対し、孫権・関羽の救援に赴きたいと主張して兵と物資を借りようとした。しかし張松だけは劉備の真意が読めず、劉備と法正に手紙を送り引き留めようとした。また、このことを知った兄は劉璋に密告した。果たして、劉備と張松の計画は劉璋の知るところとなり、張松は斬られてしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張松」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|