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張 芸謀 (チャン・イーモウ、ちょう・げいぼう、1951年11月14日 - ) は、中国の映画監督。中国映画界の「第五世代」の監督として知られる。また、撮影監督、俳優の経験もある。名の日本語表記「芸」に関する問題は、新字体の既存の字との衝突を参照。 == 来歴 == 1951年11月14日、陝西省西安で生まれる。1966年から起こった文化大革命では下放され、農民として3年間、工場労働者として7年間働いた。その後、年齢制限に抵触していたものの北京電影学院撮影学科に入学を許可される。 1982年に北京電影学院を卒業。西安映画製作所に配属され、チェン・カイコー監督の『黄色い大地』(1984年)と『大閲兵』(1986年)で撮影監督を務める。1986年にはウー・ティエンミン監督の『古井戸』に主演し、第2回東京国際映画祭で男優賞を受賞した。1987年、『紅いコーリャン』で映画監督としてデビュー。翌1988年の第38回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した。コン・リーのデビュー作にもなったこの映画は中国国内でも賛否両論が巻き起こった。 1990年の『菊豆(チュイトウ)』は第63回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。1991年の『紅夢』は第48回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。1992年の『秋菊の物語』は第49回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、コン・リーにも女優賞をもたらした。文化大革命を題材とした1994年の『活きる』は第47回カンヌ国際映画祭で審査員グランプリを受賞したが、政治的理由により本国では上映が禁止された。1995年にはコン・リーと破局。その後、1999年の『あの子を探して』で自身二度目となるヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を、チャン・ツィイーの映画デビュー作となった同年の『初恋のきた道』は、翌2000年の第50回ベルリン国際映画祭で審査員グランプリを受賞した。なお、同映画祭の審査員長はコン・リーが務めた。 2000年、ジャコモ・プッチーニのオペラ『トゥーランドット』の演出を担当。同作はフィレンツェ歌劇場のプロダクションにより、北京の紫禁城で野外上演も行われた。2002年、第13回福岡アジア文化賞大賞を受賞。同年、自身初の武術映画となった『HERO』を発表。翌2003年の第53回ベルリン国際映画祭でアルフレッド・バウアー賞を受賞。2004年にも同じく武術映画である『LOVERS』を製作した。2005年、『単騎、千里を走る。』を高倉健を主演に迎えて製作。高倉を敬愛する張が熱心にオファーした結果、高倉の出演が実現した。 2006年、10年ぶりにコン・リーを主演に迎えて大作時代劇『王妃の紋章』を製作。また、2年後に開催される北京オリンピックの開会式および閉会式のチーフディレクターに就任し、2007年に行われた『王妃の紋章』のプレミア上映の際に、この準備のために今後2年間は映画製作を行わないことを表明した。2008年、北京オリンピック開会式および閉会式の演出を行った。なお、後に開会式の演出において打ち上げられた花火の多くが事前に用意されたCG映像だったこと、9歳の少女タレントのリン・ミャオコーによる歌唱祖国の独唱が実際には別人の少女が歌ったものであったこと、中国を構成する各民族の衣装を着用した子供たちの大半が他民族の衣装を着用した漢民族の子供であったことが明らかとなった。 2009年にはコーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』(1984年)を時代劇風にリメイクした『女と銃と荒野の麺屋』を、2010年には再び文化大革命を題材とした『サンザシの樹の下で』を製作した。2011年、中国映画史上最高額となる6億元(約78億円)の製作費を投じて南京事件を描いた『金陵十三釵(原題)』を発表。同年の中国年間第1位となる約71億円の興行収入を記録し、中国社会に大きな影響を与えた。同作は第84回アカデミー賞外国語映画賞の中国代表作品に選出され、第69回ゴールデン・グローブ賞の外国語映画賞にノミネートされた。アメリカの批評家からは酷評されたが、これに対して、ある作品に対して様々な評価があるのは当然とした上で、西洋人は南京大虐殺に対する理解が低すぎると語った。 2013年、張が一人っ子政策に反して7人の子をもうけていたとして当局が調査に乗り出し、張の事務所は妻との間に3人の子供がいることを認め当局の調査に協力することを表明。2014年、江蘇省無錫市の計画生育局により、社会扶養費として748万7854元(約1億3000万円)の支払いを命じられた。同年、文化大革命を題材とする3度目の映画『妻への家路』を製作した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張芸謀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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