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張 裔(ちょう えい、166年か167年 - 230年)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。字は君嗣。益州蜀郡成都県の人。子は張毣・張郁。 ==人物== 孝廉に推挙されたことがきっかけとなって劉璋に仕え、魚復県の県長・従事・帳下司馬を歴任した。許靖は益州に入ると、張裔を実務の才があって頭の回転が良い人物であると評価し、曹操軍の鍾繇に比肩すると述べている。劉備が益州に侵攻すると、張飛軍と徳陽県の陌下(はくか)で戦ったが敗れている。 劉璋が降伏すると劉備に仕え、巴郡太守・司金中朗将に任じられ、農具と武器の製造を司った。さらに建寧太守の正昴が現地の豪族に殺害されると、その後任として益州太守(永昌太守の説あり)になったが、雍闔に捕らえられ呉に送られてしまった。後に鄧芝が呉との講和に赴いた際、蜀漢に帰還することを許されたが、もう既に58歳だったという。なお、呉の孫権は張裔がどのような性格の人物か把握していなかったため、返還の前に一度会談した。すると、孫権は張裔の性格をすっかり気に入ってしまったのか、追っ手を差し向けて連れ戻そうとした。このため、張裔は愚者の振りをしなかったことを後悔しつつ、船の速度を速め全速力で逃げ延びたという。 張裔は帰国すると早々に重用を受け、参軍・益州治中従事に任じられた上で、諸葛亮の傍らで軍務を執り仕切った。227年、諸葛亮が北伐のため漢中に駐屯した時には、射声校尉の地位にあり、さらに楊洪の反対を推しきった諸葛亮から留府長史を任された(楊洪伝)。また翌228年には、前線の諸葛亮の下へ事務の打ち合わせに赴いている。その際、数百人もの人が彼を見送ったという。 最終的には輔漢将軍まで昇進し、長史を引き続いて兼務した。230年に死去した。 『正史』には「公羊春秋を学び、広く史記・漢書を読破した」とある。また仲の良かった犍為郡の楊恭の死後、彼の家族の面倒を見たとあり「その義行は、まことに行き届いたものだった」と記述されている。楊洪ともかつては友人であったが、楊洪が子の張郁の行為を目こぼしをせず処罰し、また留府長史の人事で向朗を推挙して、自らをその下に配属することを諸葛亮に進言するなどしたことから、友情にひびが入り逆恨みするようになったという(楊洪伝)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張裔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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