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強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。とくに、平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す〔『大辞泉』強訴〕。 == 寺社による強訴 == 寺社の僧や僧兵、神人は、仏罰・神罰や武力を振りかざして、朝廷や幕府に対し自らの要求を通そうとした。自分たちの寺社に関わる何らかの問題が発生した場合、僧兵たちは裹頭(かとう)と呼ばれる覆面をつけ、声色を変えた上で提起を行い、賛成のものは「尤も尤も」、反対のものは「謂われなし」と声を上げ、ひとたび決した議決には異論を差し挟まず即座に行動に出た〔下向井龍彦 『日本の歴史07 武士の成長と院政』 講談社学術文庫 ISBN 978-4062919074、242-243p。下向井はこの僧兵から、ヘルメットにタオルの覆面姿で、「異議なし」「ナンセンス」と声を張り上げる全学連の姿を連想する、と記している。〕。 特に「南都北嶺」と並び称された南都興福寺と比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺は春日大社の神木(春日神木)、延暦寺は日吉大社の神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。神木を使う前者を「榊振り」、神輿を使う後者を「神輿振り」とも呼び〔吉川英治、ゴマブックス, 2013〕、神輿振りは1095年の強訴が最初とされる〔小山雅之、成城大学『常民文化』 (11), 61-77, 1988-03〕。白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」という言葉を残しているが、これは延暦寺の強訴を嘆いての事である。 興福寺の榊振りの場合は、まず訴訟の宣言として、神木を本殿から移殿へ移し(御遷座)、訴えが聞き入れられれば本殿へ戻し(御帰座)、聞き入れられなければ興福寺前の金堂に移し、それでもまだ聞き入れられない場合は神木を先頭にして京に向かって大行進を始め、木津で一旦駐留し(御進発)、それでもまだ聞き入れられないなら宇治平等院まで北上し、それでもだめな場合にいよいよ入洛する、という手順だった〔礪波美和子, 奈良女子大学日本アジア言語文化学会第40号、2013-03〕。 強訴の理由は寺社の荘園を国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得ることなどである。朝廷は、強訴を押さえるため、武士の武力を重用した。これは、新興勢力の武士が、仏罰や神威を恐れなかったためである。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。 寺社の強訴は平安時代から室町時代ごろまで盛んだったが、その後寺社権門の衰退と共に廃れていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「強訴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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