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忠州の戦い[ちゅうしゅうのたたかい]
忠州の戦い(ちゅうしゅうのたたかい、朝鮮語読み:忠州はチュンジュ)は、文禄元年(1592年)4月28日、忠州市付近の弾琴臺(朝鮮語読み:タングムデ)で戦われた文禄・慶長の役初期の戦闘の一つである。具体的な戦場の地名を取って「弾琴台の戦い」とも言う。 == 背景 == 朝鮮朝廷は北方の女真族との戦いで数多くの軍功を挙げた名将に望みを託して三道都巡察使に任命した。申は首都漢城府(京城)から軍官(士官)80名を連れて忠州に入った。『宣祖修正實録』によると、人望がなかった申の代わりに柳成龍が募兵した8,000名を副使(副官)金汝岉〔前義州牧使であるが、党派争いに連座して逮捕され、その職を追われた。しかし優秀で勇敢であるというので、倭乱が起きた際に再雇用され、副使となった。献言が無視されて次のいくさは必敗であると考えた金汝岉は、子供に一筆残して死を覚悟してこの一戦に臨んだ。〕に率いらせて先発させたという〔。忠州は漢江のすぐ南にあり、中路と東路で朝鮮の首都に至る際の重要拠点であった。申は後発隊の弓を引ける者数千を率いて出発し、忠州に行く途中で邑兵を収めて8,000名をさらに加えた〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「忠州の戦い」の詳細全文を読む
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