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当摩国見[たいま] 当摩 国見(たいま /たぎま の くにみ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物。当麻 国見とも書く。姓は公のち真人。系譜ははっきりしないが、用明天皇皇子である麻呂子皇子の孫で、当摩豊浜の子とする系図がある〔宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年〕。 壬申の乱の功臣で、天武・持統・文武の三代の天皇に仕えた。また、当麻寺(奈良県葛城市)の開山に携わったと伝えられる。 == 経歴 == 壬申の乱時の国見の行動は『日本書紀』に見えないが、『続日本紀』の大宝元年(701年)7月21日条には、かつて功臣として100戸の封戸を与えられたことが記されており、天武方で何らかの活躍をしたことが分かる。天武天皇13年(684年)10月に八色の姓が制定され、この際に当麻公姓を改め当麻真人姓を賜与された。 朱鳥元年(686年)9月27日、天武天皇の葬儀に際して、直大参の位にあった当摩国見は左右兵衛の事を誅した。これにより、天武朝で軍事に関わっていたことがわかる。持統天皇10年(696年)2月28日、直広壱の位であった国見は東宮大傅に任じられたが、下僚として路跡見が春宮大夫、巨勢粟持が春宮亮に任じられている。東宮大傅は皇太子の教育職で、この場合、軽皇子(後の文武天皇)のための人事である。軽皇子は翌年(697年)8月1日に即位したため、この時に国見の東宮大傅の任も解かれたと思われる。 文武天皇3年(699年)10月20日、衣縫王・当麻国見・土師根麻呂・田中法麻呂が、判官4人・主典2人・大工2人を引きつれ、越智山陵を修造するために派遣された。国見の位はこのとき直大壱であった。その後の活動は見えない。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「当摩国見」の詳細全文を読む
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