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彰考館(しょうこうかん)は、江戸時代に常陸国にある水戸藩が『大日本史』を編纂するために置いた修史局(史局)である。 == 経緯 == 水戸徳川家の世子であった徳川光圀は史学に強い関心を持ち、青年時代から修史事業を企図していたと言われる。光圀は世子時代の明暦3年(1657年)に江戸駒込別邸内の火事小屋御殿に史局を開設し、数人の局員と文庫を設けて修史計画に取り組んでいたが、寛文元年(1661年)には父頼房の死去により水戸藩主に就任し、その後は藩政や公務に忙殺されていた。 このころ幕府では『本朝通鑑』の編纂事業が行われ、これに刺激を受けた光圀は史局を江戸小石川藩邸に移転し、「彰考館」と命名した。「彰考」は光圀の命名で『春秋左氏伝』の杜預序の語「彰往考来」(往事を彰らかにし、来時を考察する)に由来する。史局には光圀揮毫による扁額が掲げられ、5か条の局員心得も記された。 史館員は全国各地に派遣されて史料調査を行い、修史編纂のほか史料収集の過程で立案された朝廷記録の編纂など、各種編纂事業に従事した。なお、光圀期の史館員は水戸藩出身者よりも士分として取り立てられた林家学派の儒者などの来仕者が中心となっている。 修史事業は天和3年(1683年)に『新撰紀伝』104巻の完成を見るが、南朝を正統とする理念を固めていた光圀は終期の延長と内容の不備を正すため修史事業は継続された。同年には新たに総裁を設置し初代総裁には人見懋斎が選任され、享禄元年には小石川藩邸内の天神坂上に新館を設置する。 光圀は元禄3年(1690年)に隠居し西山荘での生活を送っていたが、晩年の光圀は紀伝以外の各種編纂事業を中止させ校訂作業を次世代へ持ち越すなど編纂方針を変更させ、史館員を増強させる等事業を促進させている。元禄10年(1697年)には本紀「百王本紀」が完成し、同年2月には残る列伝の完成のため総裁をはじめ主用な史館員を水戸城内へ移転させ、水戸彰考館(水館、水戸史館)を発足させた。 光圀の死後、修史事業は正徳5年(1715年)には完了し、藩主綱條の裁定で書名が『大日本史』(正徳本)と定められる。これは江館の主張した書名で、水館の主張する『皇朝新史』との間で論争があった。正徳本の完成以降にも修史事業は継続され、享保年間には安積澹泊が享保本『大日本史』を完成させ、本記・列伝に続く「志・表」の編纂が懸案事項となっていたが、澹泊の死後に修史事業は実質的な休止状態となる。 江戸後期の天明6年に総裁となった立原翠軒は光圀百年忌に際して紀伝の公刊を企図し、校訂作業が進められる。立原と藤田幽谷は編纂方針を巡り対立を深め、これは江館と水館の党派的対立に発展した(史館動揺)。このころ史館員は水戸藩出身者が多くなり、著名な史館員には長久保赤水や藤田幽谷、高橋坦室らがいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「彰考館」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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