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鷹司冬教[たかつかさふゆきょう]
鷹司 冬教(たかつかさ ふゆのり)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。鷹司基忠の三男だが、兄・冬平の養子となる。号は後円光院関白。 == 経歴 == 延慶2年(1309年)4月、元服と同時に正五位下に叙せられ、禁色を聴される。6月に右近衛中将に任ぜられ、8月に従四位下、10月に正四位下、11月に従三位に叙せられて5歳にして公卿に列す。 延慶3年(1310年)正三位・権中納言に叙任される。12月15日、養父・冬平が太政大臣に任ぜられると、冬教は父に扈従して慶賀を申している〔『花園天皇宸記』延慶3年12月15日条。〕。応長元年(1311年)には従二位・権大納言に叙任され、応長2年(1312年)正二位に叙せられた。元応2年(1320年)左近衛大将・左馬寮御監を兼ね、元亨2年(1322年)内大臣、元亨3年(1323年)には東宮傅を兼ねて元亨4年(1324年)に左大臣に任ぜられた。正中3年(1326年)東宮傅を辞任。 嘉暦2年(1327年)養父・冬平の薨去を受けて喪に服す。嘉暦4年(1329年)従一位に叙せられて元徳2年(1330年)正月、近衛経忠が冬教を飛び越えて関白・氏長者となったことを不満として辞職したが、同年8月に関白宣下がされた。しかし、元弘3年(1330年)5月17日、後醍醐天皇の詔により光厳天皇の即位が廃され、同天皇が与えた官位は無効となったため、その関白である冬教は関白を解任されてしまう。建武元年(1334年)右大臣となり、氏長者、治部卿を兼ねた。建武2年(1335年)に左大臣に還ったが、11月に職を辞退した。 建武の新政崩壊後の建武4年(1337年)正月26日に33歳で薨御した。嗣子が無かったため、甥の師平を養子に迎えた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鷹司冬教」の詳細全文を読む
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