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後唐(こうとう、923年〔愛宕他 (1997)、p.15〕 - 936年〔愛宕他 (1997)、p.16〕)は、中国の王朝で、五代の一つである〔愛宕他 (1997)、p.3〕。李淵の唐の後継者を自認して国号を唐とした〔ので、区別するため後唐と呼び習わす〔愛宕他 (1997)、p.69〕。都は洛陽〔。 == 歴史 == 唐末の混乱期に、突厥沙陀部族出身の李克用が河東節度使として晋陽(太原)に駐屯し、山西地方に打ち立てた軍閥(晋国)がその前身である〔愛宕他 (1997)、pp.14-15〕。李克用は895年唐の朝廷から晋王の位を授けられたが、朱全忠との勢力争いに敗れた〔愛宕他 (1997)、p.14〕。朱全忠が唐を滅ぼして後梁を建てると、李克用はこれを認めず後梁と戦った〔。李克用の死後、子の李存勗が晋王を継ぐと後梁の内紛もあって晋が優勢となり〔愛宕他 (1997)、pp.11-13〕、力を得た李存勗は923年皇帝を名乗って後唐を建てた〔。この際、唐を号したのは、祖父の李国昌(朱邪赤心)がかつて唐の朝廷(懿宗)から反乱鎮圧の功により国姓李を賜っていたから〔で、唐の後継を自認し、同年に後梁を滅ぼして中国北部の大部分を制圧し、洛陽に都を移した〔。 後梁に形式的に臣従し〔愛宕他 (1997)、p.10〕、王に封じられていた南方の諸国(十国)は、後梁の滅亡により後唐へ使者を派遣した〔周藤、中嶋 (2004)、p.39〕。このときに使者を派遣しなかった四川地方の前蜀は〔、925年に李存勗(荘宗)により滅ぼされた〔愛宕他 (1997)、p.30〕。 四川征服後、李存勗(荘宗)は次第に驕慢となり奢侈に走り〔、さらには朱全忠が廃止した唐の遺習、軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させるなどして将士の信頼を失い、926年地方反乱に見舞われる中で部下によって殺された〔〔。李克用の養子李嗣源(明宗)は、反乱を収拾させると自ら帝位についた。宰相馮道を登用し、政治の建て直しを進めた明宗の治世は比較的平穏に過ぎたが、その晩年再び帝位をめぐる混乱が起こった。933年、明宗が病床に倒れると秦王李従栄が簒奪を企てて殺され、明宗の没後李従厚(閔帝)が後を継ぐと、明宗の養子李従珂が反乱を起こし、帝位を奪った。 しかし、李従珂と共に明宗の古くからの腹心で、明宗の女婿でもあるは「王」偏に「唐」)は、李従珂が即位すると晋陽で後唐に対する反乱を起こした。石敬は北の契丹(遼)に降って援軍を要請すると、自ら帝位について後晋を建てた(936年)。同年、後晋は李従珂を破り、後唐を滅ぼした。 後唐朝では、宰相馮道の提案により経書の木版印刷が932年から開始された〔愛宕他 (1997)、p.66〕。この事業は当初従来の王朝と同様に石刻によることが計画されたが、経費がかさむことから木版印刷となり、後周の代953年(広順3年)に完成をみた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後唐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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