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後崇光天皇 : ウィキペディア日本語版
伏見宮貞成親王[ふしみのみや さだふさ しんのう]

伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさ しんのう、応安5年3月5日1372年4月9日) - 康正2年8月29日1456年9月28日))は、室町時代の皇族。世襲親王家の一つ、伏見宮3代目当主。出家後の法名は道欽入道親王(どうきん にゅうどう しんのう)。太上法皇としての院号は後崇光院(ごすこう いん)。
現在の皇室旧皇族11宮家の最後の共通の男系祖先として知られる。
== 略歴 ==
幼少時から今出川家で養育される。左大臣今出川公直・左大臣公行父子が養親となり貞成は終生その養育の恩を忘れなかった。音楽や和歌に親しんだのも幼時の環境による。応永18年(1411年)4月4日、40歳になってやっと父宮・伏見宮栄仁親王のもとに迎えられ、伏見御所で元服して貞成と名乗った。
応永23年(1416年)11月20日に栄仁親王が薨去すると、その跡を継いだ兄・治仁王も翌24年(1417年)2月11日に急死したため、貞成王がその後継となったが、貞成には兄を毒殺した嫌疑がかけられた。後小松院や四代将軍足利義持からの安堵を受けて大事には至らなかったが、伏見宮正平一統の際に廃位されて吉野に拉致された崇光天皇の正嫡の系統であるがために、崇光天皇の弟・後光厳天皇によって再興された北朝の系統である当時の皇統からは猜疑心をもって見られることが何かと多かった。応永25年(1418年)に称光天皇に仕える新内侍が懐妊した際にも、天皇から身に覚えのない密通の嫌疑がかけられたが、このときも義持のとりなしで貞成は起請文を提出して辛くも窮地を脱している。
応永32年(1425年)、かねてから病弱で継嗣もなかった称光天皇の病状が悪化して危篤状態に陥ると、貞成は皇儲の候補となり4月16日には後小松院の猶子として親王宣下を受けた。しかしこのことは奇跡的に回復した天皇の逆鱗に触れることとなり、貞成はわずか3か月後の7月5日には伏見指月庵で薙髮するに追い込まれる。出家後の法号を道欽といい、以後は道欽入道親王を名乗った。3年後の正長元年(1428年)7月に称光天皇が再び重態に陥ると、この時は六代将軍足利義教が道欽の第一王子の彦仁王を庇護し、後小松に新帝の指名を迫った。これを受けて後小松は彦仁王を改めて猶子とし、称光天皇崩御の後譲国の儀をもってこれを即位させた(後花園天皇)。その後も後小松が引き続き治天として院政を敷いたため道欽には目立った動きがなかったが、永享5年(1433年)に後小松が崩御してからは天皇の実父としての存在感を見せるようになり、永享7年(1435年)には新しく伏見御所を造営してそこに移っている。文安4年(1447年)11月27日、後高倉院を先例として、道欽入道親王には不登極帝として太上天皇の尊号が奉られ、法皇として遇されることになった(後崇光院)。しかし道欽は慎重を期して翌年(1448年)2月22日にはこれを辞退している。
康正2年(1456年)8月29日薨去。墓所は伏見松林院陵。著作に『看聞日記』『椿葉記』がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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