|
後川 聡之(あとかわ としゆき、男性、1968年11月18日 - )は、日本の空手家(五段)、キックボクサー。大阪府出身。正道会館東大阪本部支部長および正道会館副館長〔道場紹介 正道会館東大阪本部〕。明徳義塾高校出身〔格闘技通信 1993年4月8日号 3-9頁〕。 K-1では、日本人で唯一、K-1・K-2・K-2 PLUS・K-3の4階級に参戦した〔。 == 来歴 == 19歳で正道会館総本部に入門し、1年9か月で黒帯を取得した〔。 1990年9月30日、正道会館が主催した第9回全日本選手権大会に出場。決勝で田上敬久に勝利し、入門3年半で初優勝を果たした〔。 1991年10月10日、正道会館が主催したカラテワールドカップ '91(全日本選手権大会より改称)に出場。決勝でアダム・ワットに勝利し2連覇を果たした。 1993年1月31日、東京武道館で開催された「第2回トーワ杯争奪カラテ・ジャパン・オープン」に出場。準決勝で佐竹雅昭に延長の末0-3の判定負けとなり、3位決定戦は村上竜司の棄権のため3位となった〔格闘技通信 1993年3月8日号 3-10、103-109頁〕。 1993年2月28日、リングス「後楽園実験リーグ'93 ROUND 1」のメインイベントで平直行と3分5Rの混成ルール(1・2・5Rは肘打ちなしのキックルール、3・4Rはリングスルール)で対戦し、1-0の判定ドローとなった〔。 1993年3月30日、聖戦 〜SANCTUARY I〜でスタン・ザ・マンと対戦し、TKO負けを喫した。 1993年4月30日、第1回K-1グランプリに参戦。負傷欠場となったスタン・ザ・マンの代わりに1回戦でモーリス・スミスと対戦し、3Rに右ストレートでダウンを奪われた上で0-3の判定負けを喫した〔K-1 GRAND PRIX '93 K-1公式サイト〕。 1993年10月3日、カラテワールドカップ '93に出場。1回戦でジェラルド・ゴルドー、準々決勝でサム・グレコに勝利するも、準決勝でアンディ・フグに判定負けを喫した。 1993年12月10日、K-2 GRAND PRIX '93に出場。1回戦でタシス"トスカ"ペトリディスと対戦し、0-3の判定負けを喫した。 1994年1月30日、東京武道館で開催された「第3回トーワ杯争奪カラテ・ジャパン・オープン」に出場。決勝で金泰泳に勝利し、優勝を果たした。 1994年3月4日、K-1 CHALLENGEで行なわれたWKAインターコンチネンタルスーパーライトヘビー級王座決定戦でアンドレ・マナートと対戦し、3Rに左ストレートでダウンを奪われた上で0-3の判定負けを喫した〔K-1 CHALLENGE K-1公式サイト〕。 1994年9月18日、K-1 REVENGEで9か月ぶりにタシス"トスカ"ペトリディスと再戦。リベンジを目指したが、右目尻カットによるドクターストップで返り討ちにあった〔K-1 REVENGE K-1公式サイト〕。 1995年3月3日、K-1 GRAND PRIX '95 開幕戦で金玉鐘に右膝蹴りによるKO勝ち〔K-1 GRAND PRIX '95 開幕戦 K-1公式サイト〕。5月4日の準々決勝ではピーター・アーツに右アッパーによるKO負けを喫した〔K-1 GRAND PRIX '95 決勝戦 K-1公式サイト〕。 1995年6月10日、スイス・チューリッヒで開催されたK-1 FIGHT NIGHTでユン・マークスと対戦し、右アッパーによるKO勝ちを収めた〔K-1 FIGHT NIGHT K-1公式サイト〕。 1995年7月16日、K-1 LEGEND 翔で行なわれたK-3 GRAND PRIXに出場。1回戦でキース"ペレ"ネイサンに1Rに左フックでダウンを奪われるも2-0の判定勝ちを収めるも、準決勝でイワン・ヒポリットに0-3の判定負けを喫した〔K-1 LEGEND 翔 K-1公式サイト〕。 1995年10月8日、大阪で行われた「カラテワールドカップ '95」に出場。決勝で金泰泳に敗れ、準優勝となった。 1996年6月2日、スイス・チューリッヒで開催されたK-1 FIGHT NIGHT IIでオーランド・ウィットと対戦し、タオル投入によるTKO負けを喫した〔K-1 Fight Night II K-1公式サイト〕。 1997年に現役を引退し、2000年4月に正道会館東大阪本部を設立した〔。その後、K-1のレフェリーを務めていた時期もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後川聡之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|