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後藤夜半 : ウィキペディア日本語版
後藤夜半[ごとう やはん]
後藤 夜半(ごとう やはん、1895年(明治28年)1月30日 - 1976年(昭和51年)8月29日 )は、大阪府出身の俳人。本名は潤。高浜虚子に師事、「諷詠」を創刊、主宰。「ホトトギス」同人。喜多流の能楽師で人間国宝の後藤得三、喜多流十五世宗家の喜多実はともに実弟。後藤比奈夫は息子。
== 生涯 ==
北区曽根崎新地生まれ。父・真平、母・フクの長男。私立泊園書院を卒業後、1918年から終戦まで北浜の証券会社長門商店に勤める。少年時代、父の書架にあった「ホトトギス」を読んだことから俳句に興味を持つ。1923年、「ホトトギス」に初投句し、高浜虚子に師事する。同誌の日野草城山口誓子阿波野青畝らと「無名会」を結成。1928年、「ホトトギス」課題句選者。1931年、「蘆火」を創刊、主宰。1932年、「ホトトギス」同人。1934年、病気のため「蘆火」を終刊。
戦後は俳句専業となり、1948年「花鳥集」を創刊、主宰。1953年、「花鳥集」を「諷詠」に改題。俳人協会名誉会員。神戸俳人協会理事等も努めた。1976年(昭和51年)、神戸市東灘区北青木にて死去。大阪市の蓮華寺に眠る。戒名は潤徳院法槙至純居士。没後、長男の後藤比奈夫が「諷詠」の主宰を継承。同年9月26日、蓮華寺にて追悼句会が行われる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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