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後藤 太兵衛(ごとう たへえ、慶長19年(1614年) - 延宝元年(1673年))は、加賀藩の石川郡押野村(現・石川県野々市市押野)に住んで十村を務めた人物。諱は家泰。 寛永20年(1643年)に先代・藤右衛門(とうえもん)の後を継いで後藤家第3代当主となり、加賀藩より十村に任ぜられた。藩命により明暦元年(1655年)に泉野村を、万治元年(1658年)に泉野新村と泉野出村の田畑を私財を投じて開墾した。寛文11年(1671年)にも藩命を受けて長坂新村(現・金沢市長坂町)を創設するとともに、長坂新村を始めとする野田山山麓一帯の丘陵地へ、犀川の支流である内川を取水口とする灌漑用水(長坂用水)を引く工事の指揮に当たった。 なお、野田山山麓一帯は、明治期まで石川郡に所属していたことから〔石川県史第四編第二部郡市町村治、昭和6年石川県発行、pp.100-145〕、明治21年(1888年)、当時の後藤家第11代当主・於菟吉(おときち)は、先祖・太兵衛の功労が少なくないことに対して、同郡長から銀杯を下賜されている〔石川県郷土資料館紀要第1号「後藤家文書目録」p.26〕。 *近世の押野村〔押野村史、昭和39年4月、押野村史編集委員会〕 江戸初期は地図〔金沢市近世史料館、加賀国絵図(1664年(正保3年))〕にも載らない戸数10~20の生産石高も小さい小集落だった可能性がある。村々の生産高を示す郷村高辻帳〔金沢市近世史料館、加越能三箇国高付帳(1664年(寛文4年)〕には、明治期の合併によって新制押野村を構成する 八日市村(明治25年の戸数48戸)、八日市新保村(〃59戸)、御経塚村(〃67戸)、押越村(〃16戸)、矢木荒屋村(〃34戸)、森戸村(19戸)の集落名が載っているが、野代村(〃8戸)や太郎田村(〃47戸)などと同様に 押野村の名は見当たらない。ようやく、1702年の地図〔金沢市近世史料館、加賀国絵図(1702年(元禄15年))〕に現れるが、押野村は「八日市村之枝村押野村」と但し書き付きである。 太兵衛達の十村就任と同時に押野の集落が急速に大きくなり、明治22年に発足した新制押野村では同村を構成する11ケ村中最大の集落(明治25年の戸数126戸)となっていることに、押野後藤家の存在が大きく影響していると考えられる。 ファイル:canal_nagasaka1.jpg|長坂用水取水口(金沢市小原町 ) ファイル:Canal nagasaka2.JPG|長坂用水(金沢市別所町 ) ファイル:Canal nagasaka3.JPG|長坂用水(金沢市長坂・野田町付近) ファイル:Canal nagasaka4.JPG|長坂用水(金沢市泉野出町付近) == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後藤太兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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