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後藤 寿庵(ごとう じゅあん、天正5年(1577年)? - 寛永15年(1638年)?)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、キリスト教信者(キリシタン)。本名は岩淵又五郎。伊達氏の家臣。一説には葛西氏の旧臣。 == 生涯 == 陸奥国磐井郡藤沢城主・岩淵秀信の次男として誕生。 天正年間(1573年〜1591年)、豊臣秀吉によって主家・葛西氏と共に滅びる。 慶長元年(1596年)、長崎に住みキリシタンとなるが、迫害によって五島列島宇久島に逃れ、ここで洗礼を受け、寿庵(洗礼者ヨハネの意)と名乗り、五島氏に改名する。 慶長16年(1611年)、京都の商人田中勝介と知り合い、その推薦によって、支倉常長を通じて陸奥国の戦国大名・伊達政宗に仕えた。慶長17年(1612年)、後藤信康の義弟として、見分村(岩手県奥州市水沢区福原)1,200石を給される。寿庵は原野だった見分村を開墾するため、大規模な用水路を造り、これが「寿庵堰」と呼ばれ現在もその跡が残る。大坂冬の陣・夏の陣では、伊達政宗の配下として鉄砲隊の隊長を務めた。 一方で、寿庵は熱心なキリシタン領主であったため、天主堂・マリア堂などを建てた。家臣らのほとんどが信徒となり、全国から宣教師や信徒がその地に訪れたという。また元和7年(1621年)、奥羽信徒17名の筆頭として署名し、前年のローマ教皇パウルス5世の教書への返事を送った。 ところが、江戸幕府3代将軍・徳川家光の治世となると、キリスト教の禁止が厳しくなり、主君・政宗もその取り締まりを命ぜられた。寿庵を惜しんだ政宗は、布教をしない・宣教師を近づけないことを条件に信仰を許そうとしたが、寿庵はこの条件を拒否。陸奥南部藩に逃亡したとも、出羽秋田藩に渡って死去したとも伝えられる。 大正3年(1923年)、治水の功により従五位が贈られた。昭和6年(1931年)には彼の館跡に寿庵廟堂が建てられ、毎年9月11日に寿庵祭が行なわれている。昭和26年(1951年)、宮城県登米市(東和町米川西上沢)で後藤寿庵の墓が発見されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後藤寿庵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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