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後藤房之助 : ウィキペディア日本語版
後藤房之助[ごとう ふさのすけ]

後藤 房之助(ごとう ふさのすけ、1879年(明治12年)11月14日 - 1924年(大正13年)7月31日)は、八甲田雪中行軍遭難事件での生存者の一人。宮城県栗原郡姫松村(現:栗原市)出身で、帰郷後に村会議員を務めた。
== 経歴 ==
後藤伍長は出身は小作の五男(三男とも言われるが、この時代は子供が幼いうちに死んでしまうことが多かったためであろう)で、炭焼きの仕事をしていた。1899年(明治32年)12月に陸軍に徴集される。仕事柄、もともと他の兵よりは冬季の山に関する知識があった。
1902年(明治35年)1月、歩兵第5連隊伍長として八甲田山の雪中行軍に従う。1月23日に雪中行軍は出発したが、遭難した結果数日のうちに大半の兵士が凍死するという惨劇になった。
ほとんどの兵士は倒れるか道を誤るなどしたため、総指揮官の神成文吉大尉と2人だけの行軍になる。その神成大尉が倒れた後は、大尉の命を受け前後不覚になりながらも1人で行軍を続けていた。1月27日午前10時ごろ、凍死寸前のところを救助隊に発見されたことで、遭難した事実が連隊に伝わった。その発見時の状況については諸説あるが、「遭難始末」では仮死状態で佇立していたところを、措置を施したところ11分後に蘇生したとされている。発見地から西方約100メートルの場所で神成大尉が凍死していた。栗原郡出身の人物は18人いたが、後藤伍長を除く他の17人は全員死亡した。宮城県出身で雪中行軍に参加したのは48人いたが、田代元湯で発見された村松文哉伍長と後藤伍長を除き、46名が死亡した。同年9月になって後藤伍長は帰郷した。その後結婚し、子供も儲ける。
1906年7月23日、八甲田山で後藤伍長の銅像の除幕式が行われる。本人も出席したが、照れくさかった模様である。
後藤は両手両足を切断したが、乗馬が好きで、また器用に酒を飲んだという。後藤は栗原郡姫松村の村会議員にも当選し、2期議員を務め、村政に携わった。1924年、来客と酒を酌み交わしている最中に脳溢血で死去した。墓は姫松にあり、遭難事故の犠牲者が眠る幸畑陸軍墓地にも分骨されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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