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後藤 浩二朗(ごとう こうじろう)は、日本の馬術家。バルセロナオリンピック総合馬術競技代表。アジア大会総合馬術、団体金メダリスト、個人銅メダリスト。 *アニマルベジテイションカレッジ副校長 *エルメスジャポン㈱馬具テクニカルアドバイザー *ゴトウワークス代表 *RDA Japan理事 Riding for the Disabled Association *千葉県馬術協会 理事 == 経歴 == 東京都出身 祖父 銀作より馬術家として3代目。 誕生の半年前に東京より空気のきれいな横浜に移り、そこで育つが高校、大学時は馬術部(日本大学)のある藤沢で過ごす。 1962年2月、東京都馬術連盟名誉会長・後藤博司の次男として誕生。 1977年4月、日本大学付属藤沢高等学校入学 同馬術部入部。 1980年4月、日本大学経済学部経済学科入学 同体育会馬術部入部。 1977年〜1980年、第1期 JEF総合馬術部門ジュニア強化選手指定を受ける。 1982年〜1986年、JEF総合馬術部門ナショナルチームにメンバーの指定を受ける。 1982年、最年少でインド ニューデリーで開催されたアジア大会総合馬術競技にてガンジー首相より銀メダルを受理。 1984年、日本大学経済学部卒業後、米国ヴァージニア州の Karen O’connor選手に師事。その後、英国、ニュージーランドにて海外馬術研修。 1985年、祖父の創業した後藤鉄工所勤務の傍ら、日本大学馬術コーチとして後進の指導。 1986年、アジアオリンピック大会ソウル会場にて、日本悲願の団体初優勝 個人3位。 1991年〜1999年、フランス ル・マンを本拠地として選手兼指導者として活動。ソウルオリンピック仏国チームのMr.Laurent Bousquetに師事。Bousquetから馬・馬術の考え方から生き方まで、人生に多大な影響を受ける。 1991年、国際総合馬術競技CCI PAU フランスに於いて戦後の欧州国際大会では日本人初の個人2位入賞。 1992年、バルセロナオリンピック総合馬術競技にて戦後初 団体7位入賞 。 1993年、国際総合馬術競技CCI LUMMENベルギーに於いて日本人として個人初優勝。 1993年〜1995年、JOC日本オリンピック委員会 スポーツ指導者在外研修員として活動。 1995年、日本国初欧州開催の国際総合馬術大会CCIヴィッテルにて団体優勝。 1998年、「日本におけるフランス年」としてお台場で開催された日仏友好親善交流「フランス祭り」の「馬とポニーの部門」の製作と進行を担当し好評を得る。 1999年、日本人として初めてフランスでポニーのスペシャリストの資格を取得。12月、フランスより13頭のシェットランドポニーを連れて帰国。 2000年1月、山梨国際乗馬クラブ技術顧問として日本で初めて本格的なポニープログラムの指導開始。7月、NPO地域福祉研究会「ゆきわりそう」の障害者乗馬技術講師に就任。10月、「動物ふれあいフェスティバル」にてポニーブース担当 於) お台場。 2001年6月、エルメスジャポン株式会社の馬具テクニカルアドバイザーに就任。10月、群馬県松井田町にNPO地域福祉研究会「ゆきわりそう」が主催する乗馬施設ハローヒポアンジュの設立に携わり、初代所長を務める。 2002年9月、「ハローヒポアンジュ」を「ハローヒポ」と改め同所の顧問に就任。同月、赤城乗馬学校技術顧問としてポニープログラム指導開始。 2005年、KHTプランニング「KHTライディングスクエア」の馬術主任に就任。富澤香代子が亡き一人息子の功績の記念施設としてブルーベリーヒル内(千葉県勝浦市)に乗馬施設を開設。2006年6月、富澤の他界により同施設を退任。相談役に就任。 2007年4月、ジャパンホースマンアカデミー 馬術部門講師に就任。 2008年2月、ジャパンホースマンアカデミー解散のため退任。 2008年8月、エクウスライディングファーム(相模原市)にてポニープログラム指導開始。 2009年10月、TBS オールスター感謝祭「ポニー競馬」にポニー9頭と共に出演。 2011年3月、エクウスライディングファーム退任。 2011年4月、児童専門ポニースクール プティパレ開校(小田原市鴨宮)の校長に就任。10月、総合馬術競技トレーニングおよび競技 パトリック・ガルウ著書監修出版:恒星社厚生閣 2012年3月、 NPO地域福祉研究会「ゆきわりそう」乗馬教室顧問を退任。8月、児童専門ポニースクール プティパレを退職。9月、宝馬乗馬学校・アニマルベジティションカレッジ副校長に就任。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後藤浩二朗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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