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後黎朝 : ウィキペディア日本語版
黎朝[れちょう]

黎朝(レちょう、れいちょう、 1428年 - 1527年1532年 - 1789年)は、黎利(レ・ロイ、)によって建てられたベトナムの王朝である。
ベトナム史において「黎朝」が2度存在したため、10世紀黎桓の建てた王朝を前黎朝()とし、こちらを後黎朝()と呼んで区別することがあるが、一般的に「黎朝」といえば19年しか続かなかった前黎朝でなく、前期後期あわせて250年を超える後黎朝を指す。また、莫氏()の簒奪による一時断絶を境に前期(初黎朝、)と後期(中興黎朝 、)に分ける。
==後黎朝前期==
15世紀初頭にはベトナムを支配下に置いていたが(、1407年 - 1427年)、これに対し、清化地方丘陵部の小首長黎利(ムオン族との説もある)が挙兵した。長期のゲリラ戦を経て明の勢力を国外へ放逐し、1428年に現在のハノイで皇帝に即位。国号を「大越」とした。
黎利は皇族を冷遇して皇帝独裁体制を築こうとした。しかし彼の死後、政権の中枢は黎利とともに対明戦に従事した開国功臣(ほとんどが清化出身)によって占められた。開国功臣は歴代皇帝や彼ら相互に婚姻関係を結び、地方に多くの領地を有する軍事貴族として政権を主導した。前期黎朝の歴史は開国功臣(とその子孫)間の権力闘争が帝位継承争いと結びつく形で推移した。内政面では国内を五道に分け、その下を府県社に分割し地方行政制度を整備すると共に、国子監などの教育面の充実とそれに伴う官吏養成制度を定め、土地台帳や戸籍を整備し公田分配の制度を定めるなど、建国初期の諸政策を実行している。
1434年に黎利が崩御すると、その次子である太宗が即位した。即位時に僅か11歳ということもあり、当初黎察という人物が摂政に当たっていたが、成人するとこれを退け親政を開始した。また太宗の時代より科挙の制度を確立し、1442年にははじめての進士合格者を登用している。
1443年仁宗が僅か2歳で即位すると、このころより黎朝とチャンパ王国(占城)との紛争が続いた。チャンパとの戦いの中でチャンパ王マハーブシャを捕虜にするなど、軍事的にも充実した時期を迎えた。しかし生母楊氏が太宗の寵愛を失い即位できなかったことを恨んだ黎宜民(仁宗の異母兄)が、1459年に宮城に侵入、仁宗とその生母黎氏を殺害して自ら帝位に即くという事件が発生した。ここに黎朝朝廷に混乱が生じたが、1460年には阮熾丁列などの勢力が黎宜民を廃し、太宗の第4子である聖宗を擁立している。
聖宗の時代は明との友好関係が維持されたのに対し、チャンパとの対立が深まった時代である。1470年にチャンパ第15王朝第2代王であるバン・ラチャトアンが化州に侵攻、これに対し聖宗は25万の軍勢による親征を実施(:en:1471 Vietnamese invasion of Champa)、チャンパの首都であるを攻略、ラチャトアンを捕虜にし、チャンパ王朝を隷属させることに成功している。この他ラオスに存在したランサーンの攻略も行いその他律令制度の整備などによって繁栄を迎えた。聖宗は抗争で疲弊した開国功臣勢力と自らが取り立てた科挙官僚群とのバランスの上に立って主導権を回復・維持した。しかしその繁栄も続かず、次代の憲宗が早世し、その子である粛宗威穆帝が相次いで即位したが、国勢は衰微へと辿り続けた。
特に威穆帝の暴虐ぶりは明使である許天錫から「鬼王」と記録されるほどであり、この事態に1509年、従弟の黎を中心とするクーデターが発生し、黎は襄翼帝として即位した。しかし襄翼帝も即位後は享楽にふけり、宗室を殺害するなどの暴虐を尽くしたことから反乱が続発、1516年に殺害され、続いてが即位することとなった。
この時期になると朝廷内の権臣が私兵を以て抗争を繰り広げるようになった。この状況下、昭宗が海陽出身の武人莫登庸(マク・ダン・ズン、Mạc Đăng Dung)に朝廷軍の指揮を委ねると、莫登庸の専横が強まり、その専横に身の危険を感じた昭宗は宮城を脱出、西京(清化)の鄭綏の下に身を寄せた。
莫登庸は昭宗追跡の軍勢を差し向けると同時に、昭宗の弟を擁立した。こうして恭皇を推す莫登庸と、昭宗を推す鄭綏の間での抗争となった。この抗争は莫登庸が有利に戦いを進め、1525年には昭宗を軟禁して1527年にこれを殺害するとともに、恭皇に禅譲を迫り、ここに黎朝は滅亡した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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