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志貴皇子[しきのみこ]
志貴皇子(しきのみこ、生年不詳 - 霊亀2年8月11日(716年10月4日))は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子(施基親王)、志紀皇子とも記す。天智天皇の第七皇子〔『続日本紀』霊亀2年8月11日条による。『類聚三代格』では第三皇子とする。〕。位階は二品。 == 概要 == 壬申の乱により、皇統が天武天皇の系統に移ったために、天智天皇系皇族であった彼は皇位継承とは全く無縁だった。政治よりも和歌等文化の道に生きた人生だったが、薨去から50年以上後の宝亀元年(770年)に、聖武天皇の娘井上内親王を后とし、母系では天武系となる他戸王を儲けていた六男〔志貴皇子には男王が6名あったと伝わるが、兄弟順は未詳。〕の白壁王が、皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、春日宮御宇天皇の追尊を受けた。かくして皇位に一切執着せず清らかな人生を終えた彼の系統が現在まで長く続く事となった。御陵所の「田原西陵」(奈良市矢田原町)にちなんで田原天皇とも称される。 清澄で自然鑑賞に優れた歌い手として『万葉集』に6首の歌を残している。代表的な歌として、「石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の 萌え出づる春になりにけるかも」(岩の上を流れる滝の上に蕨が芽を出し、春を感じることよ)が有名。 なお、孝謙上皇の寵愛を受けた道鏡は、志貴皇子の皇胤であったとする説が『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』『僧綱補任』『公卿補任』などに見られる〔太田亮は『姓氏家系大辞典』でこれを否定している。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「志貴皇子」の詳細全文を読む
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