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御書 : ウィキペディア日本語版
日蓮[にちれん]


日蓮(にちれん、貞応元年(1222年2月16日〔には、「その誕生日の2月16日については自ら記すところではないが、『本門宗要抄』の下巻と、この書と大体同時代の成立と思われる日道の『御伝土代』に誕生を2月16日と記している」とある(但し、漢数字は算用数字に改めた)。なお、『本門宗要抄』には偽書説があるが、それについてはで「日蓮の事蹟・生涯についてはおそらく日蓮の直弟たちの間の周知のこと、またその伝承されていたことがつづられたもので、この両書は日蓮宗の初期の伝承を伝える珍重すべきものである。したがって2月16日の誕生は真を伝えているとみて良い。」としている。〕 - 弘安5年(1282年10月13日)〔ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日。グレゴリオ暦の施行は1582年で日蓮はそれ以前に亡くなっているが、日蓮宗諸派では日蓮の事跡をグレゴリオ暦換算の日付で祝うため、グレゴリオ暦の日付を併記している。なお、換算は【換暦】暦変換ツール による。〕は、鎌倉時代仏教鎌倉仏教十三宗のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇1358年)と立正大師大正天皇1922年)の諡号を追贈された。
== 生涯 ==

* 1222年(貞応元年)2月16日 (旧暦)(3月30日/4月6日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。
* 1233年天福元年)清澄寺道善房に入門。
* 1238年暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
* 1245年(寛元3年)比叡山定光院に住し、俊範法印に就学した。
* 1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。
* 1248年(宝治2年)薬師寺仁和寺へ遊学。
* 1248年(宝治2年)高野山五坊寂静院へ遊学〔寺伝による。〕。
* 1250年(建長2年)天王寺東寺へ遊学。
* 1253年(建長5年)清澄寺に帰山。
* 1253年(建長5年)4月28日5月26日6月2日)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める。中院尊海僧正より恵心流伝法灌頂を受ける〔寺伝による。〕。
* 1254年(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始。
* 1257年(正嘉元年)富士山興法寺大鏡坊法華経を奉納〔富士山頂上経ヶ岳霊場略縁起(村山浅間神社蔵)〕。
* 1258年(正嘉2年)所伝によれば、この年実相寺にて一切経を閲読。この頃、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房とする。
* 1260年文応元年)7月16日8月24日8月31日立正安国論を著わし、前執権幕府最高実力者の北条時頼に送る〔この書は、地震洪水飢饉疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。〕。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後、ふたたび布教をおこなう。
* 1261年弘長元年)5月12日、幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流(伊豆法難)。
* 1264年文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失う。
* 1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗平頼綱建長寺蘭渓道隆極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。
*1269年(文永6年)富士山経塚を築く〔富士山頂上経ヶ岳霊場略縁起(村山浅間神社蔵)〕。
* 1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる〔刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。〕。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。 10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である。
* 1274年(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。その後、身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて身延入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。
* 1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。
* 1277年建治3年)9月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。
* 1279年弘安2年)9月21日、駿河熱原の神四郎等20人が滝泉寺行智等に讒せられ鎌倉に送らる。
* 1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。
* 1282年(弘安5年)
 *9月8日10月10日10月17日)、病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5年9月18日武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。
 * 10月8日11月9日11月16日)、死を前に弟子日昭日朗日興日向日頂日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる〔日蓮正宗では、日興一人だけが後継者に定められたとしている。〕。
 * 10月13日11月14日11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて死去。現在、大本山池上本門寺となっている。享年61(満60歳)〔死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらずの花が咲いたと伝えられ、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える習わしとなっている。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nichiren 」があります。



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