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御真影(ごしんえい)は、高貴な人の肖像画や写真を敬っていう語。 == 歴史 == 宮内省から各学校に貸与され、奉安殿に教育勅語と一緒に保管された。下付は強制ではなく、各学校からの請願の上、その学校が「優等」とされた場合に下付されることとなっていた。 宮内省から「貸与」されている物だけに、非常に慎重な取り扱いが要求され、1898年(明治31年)に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)で、火事により明治天皇の御真影が焼けてしまった際には、当時の校長・久米由太郎(小説家久米正雄の父)が責任を取って割腹自殺するという事件が起きたこともあった。また、1933年(昭和8年)、沖縄県南城市の第一大里小学校(現在の大里北小学校)で火事が起こって御真影が焼けてしまった際にも同様に、当時の校長が割腹自殺をした〔「御真影」に殉じた教師たち 岩本努・著 1989年4月 大月書店より出版〕。安全のため、学校ではなく町村役場で保管した例もあった。 当時輸入を担当していた小西六本店(コニカを経て現コニカミノルタ)が1928年(昭和3年)3月に出版したPR誌によると、昭和天皇夫妻の御真影はヘリアーで撮影されている〔『クラシックカメラ専科No.8、スプリングカメラ』p.125。〕。 複写して販売する写真家が出て1874年(明治7年)4月には売買禁止が発令されたが希望者が多かったため違反者は絶えず、1875年(明治8年)2月にも禁止が発令された〔『クラシックカメラ専科No.38、プラクチカマウント』p.133。〕。 日本が第二次世界大戦で敗れると、1945年9月27日に昭和天皇がアメリカ大使館にダグラス・マッカーサーを訪ねた際に、アメリカ陸軍の写真班によって昭和天皇とマッカーサーが並んで撮影された。この写真は政府により発禁処分にされたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が撤回させて9月29日の新聞各紙の朝刊の紙面を飾り、昭和天皇がマッカーサーの隣に直立不動の姿勢で普通に新聞に写っていることは国民に大きな衝撃を与えた。 第二次世界大戦の敗北に伴う御真影の回収に当たっては、新たな御真影と交換するという前提で回収された。しかし、それ以後に新たな御真影を下付された学校は、1952年の秋田県の私立敬愛学園高校(現在の国学館高等学校)だけである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「御真影」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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