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御願塚古墳[ごがづかこふん]
御願塚古墳(ごがづかこふん)は、日本の兵庫県伊丹市にある古墳。推定建造年代は5世紀後半とされる。1966年(昭和41年)3月22日、兵庫県史跡・文化財指定〔兵庫県指定文化財 (伊丹市)〕。 == 概要 == 現在の尼崎市塚口あたりまで南北に点在していた塚口古墳群の北端に位置すると見られ、多くの古墳が宅地開発により失われた中でほぼ造営当時の原型を留めている前方後円墳である。元は周囲に満塚(みちづか)・掛塚(かかりづか)・温塚(ぬくめづか)・破塚(やぶれづか)の4基が陪塚として築かれており、この4基と本体の古墳を合わせて五ヶ塚(ごかつか)と呼ばれていたものが転じて「御願塚」になったとされている〔角川日本地名大辞典 第28巻 兵庫県、604ページ。〕。4基の陪塚はいずれも宅地造成で破壊され、跡地には位置を示す石碑が建てられている。 伝承では、昆陽池の造営を指導した行基が当地で開耕の完遂を祈願したとされる。古墳の頂部には1681年(延宝9年)創建とされる南神社(「南之神社」とも〔近接する南野神社(南野4丁目)とは異なる。〕)が鎮座し、御願塚村では長らく孝徳天皇の陵墓であると信じられていた〔中畔明日香「5世紀のイナノについて一考察 」(伊丹文化財保存協会『絲海』36号)〕。1875年(明治8年)に村民が政府の許可を得て古墳を発掘した際に石組を発見するが、作業の中断を命じられたため被葬者に関する詳細は判明していない〔御願塚古墳(ごがづかこふん) 〕。また、村民が求めていた陵墓の指定に関しては既に大坂磯長陵が孝徳天皇陵と比定されていることを理由に却下された。南神社では孝徳天皇を祭神としているが後年の調査で陵墓とする説はほぼ否定されており、現在では地域の豪族を被葬者とする説が有力である〔「稲野駅の一節(77駅目) 」(阪急電鉄)〕。 1966年に兵庫県の史跡指定を受けた後、1969年(昭和44年)に伊丹市教育委員会が第1次発掘調査を実施した。以後も断続的に調査が継続されており、1999年(平成11年)には古墳周辺の整備事業により道路を挟んだ向かい側に行基のブロンズ像が建立されている〔『広報伊丹』1999年7月15日号2 - 3ページ。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「御願塚古墳」の詳細全文を読む
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