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徳丹城(とくたんじょう/とくたんのき)は、現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田にあった日本の古代城柵。1969年(昭和44年)8月5日に国の史跡に指定されている。 ==概要== 「徳丹城」は、もともとあった志波城(盛岡市)を、水害を理由に弘仁2年(811年)、文室綿麻呂の建議により、翌年の3月頃南10キロメートルに移転・造営したものである。 沖積平野の微高地(低台地)に立地し、約350メートル四方の規模である。材木列で周囲を囲み、70メートル - 80メートルの間隔で櫓を建てていた。内部には官衙建物群があり、志波城の政治機能を引き継いだものと考えられる。 しかし志波城と比べて城郭の規模は縮小されており、築地も北側にしかない。さらに弘仁6年(815年)には配置されていた鎮兵500人が廃止され、正規軍が配置されなくなる。しかし徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられている。 志波城の移転・徳丹城の造営・徳丹城の廃止の一連の流れは、この時期の律令国家の強硬政策の転換として、熊谷公男や鈴木拓也らが取り上げている。 2006年7月31日に徳丹城跡内の井戸跡で、国内初となる木製の兜が発見されていたことが9月13日に矢巾町教育委員会から報道機関に公表された。過去の文献には木製兜の存在が記されており、その数も非常に多いと推定されていたものの、木材は腐食しやすく出土した例が無かった。 また、1971年頃に徳田小学校旧校舎を取り壊した際、建築廃材(コンクリート片)がそのまま徳丹城跡に埋められ、史跡が385平方メートル(2007年7月26日現在判明分)に渡って損傷していたことも明らかになった。 敷地内に、矢巾町歴史民俗資料館、南部曲り家を併設し、史跡公園として現在整備が進められている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳丹城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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