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徳大寺公継[とくだいじ きんつぐ]
徳大寺 公継(とくだいじ きんつぐ、安元元年(1175年) - 嘉禄3年1月30日(1227年2月17日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公卿。後鳥羽天皇(82代)・土御門天皇(83代)・順徳天皇(84代)・仲恭天皇(85代)・後堀河天皇(86代)の五朝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。初名は公嗣。父は左大臣徳大寺実定。母は上西門院女房備後(『尊卑分脈』公継条)。室は三条実房の娘。子に太政大臣徳大寺実基、徳大寺実嗣がいる。野宮左大臣と号す。日記に『宮槐記』がある。 寿永2年(1183年)12月に叙爵〔公継の両親はともに上西門院に仕え(実定はかつて上西門院の皇后宮権大夫を務めた)、叙爵はその御給による。更に同月に侍従に任ぜられ、翌月(同3年1月)には再び女院の御給によって従五位上に叙せられている(中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年 ISBN 4-305-70296-7 70頁)。〕して以降累進して、侍従・備前介・右近衛少将・右近衛中将などをへて、建久元年(1190年)参議となり、公卿に列する。公継の兄二人は早世し、自身も病気がちとなった父の実定が自身の左大臣辞任と引き換えに残された公継の参議任官を後白河法皇や九条兼実らに乞うて認められたものという〔中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年 ISBN 4-305-70296-7 53-54頁〕。建久6年(1195年)後鳥羽天皇の中宮九条任子の中宮大夫となる。伊予権守・権中納言・左衛門督・検別当などをへて、建仁2年(1202年)には皇太子守成親王(のちの順徳天皇)の春宮権大夫となる。同年、正式な中納言となる。元久元年(1204年)に権大納言、さらに建永元年(1206年)大納言となった。さらに正式な春宮大夫となる。承元元年(1207年)右近衛大将に任じられる。承元3年(1209年)、正二位内大臣となる。承元4年(1210年)に右近衛大将を辞し、建暦元年(1211年)右大臣となり、建保3年(1215年)に辞職した。承久3年(1221年)に更任、貞応3年(1224年)、一上となし、ついで左大臣に任じた。嘉禄元年(1225年)、従一位に叙され、同3年(1227年)、薨じた。 『古今著聞集』の情報源として、徳大寺公継のサロンが大きく関わっていたと言われている〔東アジア恠異学会、Rinsenbookco.,ltd, 2003〕。 == 脚注 ==
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