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藤原多子[ふじわら の まさるこ] 藤原 多子(ふじわら の まさるこ、保延6年(1140年) - 建仁元年12月24日(1202年1月19日))は平安時代末期の后妃。近衛天皇の皇后、次いで二条天皇の后となり「二代の后」と呼ばれた。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。養父は藤原頼長、養母は藤原幸子。21世紀現在においても最後の太皇太后である(近代以降の皇室典範には「太皇太后」にかんする規定がある)。 == 生涯 == 藤原頼長は徳大寺実能の長女・幸子(多子の伯母)と結婚して、徳大寺家の人々と大炊御門高倉邸に住んでいたことから、義弟・公能の娘を幼い頃から養女としていた。永治2年(1142年)、養女は3歳となり、3月に魚味始(まなはじめ)、8月に着袴(はかまぎ)の儀を行った。久安4年(1148年)6月、頼長は近衛天皇への養女の入内を鳥羽法皇に奏請して承諾を得た。8月、頼長が養女の名字を側近の儒者に勘申させると、「多」の字に賛成意見が集まった(『台記別記』)。「夫婦の儀、愛を以って先と為す。文は既に夕を重ね、情は同じく夜に専らとす。しかのみならず子孫衆多、后妃の至徳なり」という理由により、多子と命名され従三位に叙せられた。頼長は入内実現に向けて準備を進めていたが、12月に父・藤原忠実の正室・源師子が死去したため、翌年正月に予定されていた近衛天皇元服の儀式が中止となり、入内も延引となってしまう。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原多子」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fujiwara no Tashi 」があります。
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