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徳大寺実久 : ウィキペディア日本語版
徳大寺実久[とくだいじ さねひさ]
徳大寺 実久(とくだいじ さねひさ、天正11年8月16日1583年10月1日) - 元和2年11月26日1617年1月3日)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての公卿。主に後陽成天皇(107代)・後水尾天皇(108代)の二帝にわたって朝廷に仕え、従三位権中納言まで昇った。父は左大臣花山院定熙。母は内大臣徳大寺公維の娘。妻は右大臣織田信長の娘(月明院)。息子に左大臣公信、娘に和田三正室がいる。号は晴雲院。
徳大寺公維の外孫に当たるため、公維の養子に入って徳大寺家の名跡を継いだ。天正14年(1586年)従五位上に叙爵。以降累進して、天正15年(1587年)侍従となる。天正17年(1589年)に元服し、慶長3年(1598年)には右近衛少将に任じられた。慶長5年(1600年)には従四位上に進んだ。しかし慶長14年(1609年)には烏丸光広大炊御門頼国猪熊教利らとともに姦淫放蕩をして勅勘を被った(猪熊事件)。慶長16年(1611年)には許され、再び朝廷に出仕した。
慶長17年(1612年)に正四位下右近衛中将となり、慶長18年(1613年)1月6日には従三位に叙せられ、公卿に列した。慶長19年(1614年)には権中納言となる。元和元年(1615年)には踏歌節会外弁をつとめたが、元和2年に薨去した。享年34。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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