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徳大寺実能[とくだいじ さねよし]
徳大寺 実能(とくだいじ さねよし、永長元年(1096年) - 保元2年9月2日(1157年10月6日))は、平安時代後期の公卿。父は藤原公実。母は但馬守・藤原隆方の娘で、堀河・鳥羽両天皇の乳母・藤原光子。待賢門院の同母兄であり、徳大寺家の祖となる。久安3年(1147年)徳大寺を建立し、徳大寺左大臣と称された。子に徳大寺公能、徳大寺公親、徳大寺公保がいる。従一位・左大臣。 == 生涯 == 長治元年(1104年)に従五位下に叙せられる。元永元年(1118年)、璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権亮、天治元年(1124年)璋子が院号宣下を受けると待賢門院別当になる。璋子の兄であることから重用され、保安3年(1122年)に権中納言に任じられた後は、左兵衛督・右衛門督・検非違使別当と累進。長承2年(1133年)には長女・幸子(22歳)を藤原頼長(14歳)と結婚させることで、摂関家と関係を強めた。保延2年(1136年)に正二位権大納言となるが、永治元年(1141年)の崇徳天皇の退位と康治元年(1142年)の待賢門院出家により、閑院流は低迷期に入る。 閑院流の中心は異母兄の三条実行だった。頼長の支援を受けた実能は、実行を名誉職である太政大臣に棚上げして空席を作り、久安6年(1150年)に内大臣となった。久寿2年(1155年)に幸子が逝去すると頼長から離れて美福門院に接近し、皇太子・守仁親王(後の二条天皇)の東宮傅(とうぐうのふ)になるなど変わり身の早さを見せる。保元元年(1156年)9月、左大臣となる。保元2年(1157年)正月に従一位に叙せられるが、7月に出家して法名を真理と称した。9月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨去。歌人として有名で、かつての家人・西行と親交が深かった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳大寺実能」の詳細全文を読む
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