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徳川慶久[とくがわ よしひさ]
德川 慶久(とくがわ よしひさ、1884年(明治17年)9月2日 - 1922年(大正11年)1月22日)は、日本の政治家。爵位は公爵。周囲の人々からは有職読みで「けいきゅう様」と呼ばれ親しまれていたという。新字体で徳川 慶久とも表記される。 貴族院議員、第一銀行取締役、華族世襲財産審議会議長などを歴任した。 == 生涯 == 1884年(明治17年)9月2日、徳川慶喜の七男として静岡県静岡市紺屋町の屋敷で生まれる。母は側室の新村信。初名は久(ひさし)。宮川喜久蔵、次いで黒田幸兵衛のもとに預けられる。1896年(明治29年)8月、妹英子とともに静岡から東京に移り、学習院に入学する。徳川慶喜家の継嗣となるにあたって、1902年(明治35年)6月6日に、父の偏諱をとり慶久と改名した〔慶喜の「慶」の字は、もともとは江戸幕府第12代将軍徳川家慶から賜ったものである。以降、「慶」の字は子の慶光・孫の慶朝にも付けられている〕。1906年(明治39年)7月、学習院高等科を卒業する。 1908年(明治41年)11月8日、有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子と結婚。實枝子は有栖川宮最後の王女であり、次女・喜久子が有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王と結婚したのもそのためである。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年12月1日に貴族院議員となる。 1922年(大正11年)1月22日10時35分、東京府東京市小石川区第六天町54番地(現・東京都文京区小日向)の本邸で急死。死因は脳溢血とされたが〔『大正過去帳―物故人名辞典』〕、一部には自殺説も取り沙汰された。元華族の松平幸子(仮名)の証言によると、「眠られぬまま飲んだカルモチンの量を間違えた過失死だった」という〔遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』p.280(朝日文庫、1985年)〕。没後、正三位勲三等瑞宝章を追贈される。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川慶久」の詳細全文を読む
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