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徳川 斉温(とくがわ なりはる、文政2年5月29日(1819年7月20日) - 天保10年3月20日(1839年5月3日))は、尾張藩11代藩主。従二位権大納言。 11代将軍・徳川家斉の十九男。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。母は側室・お瑠璃の方(青蓮院)。正室は田安斉匡の娘で従姉妹にあたる愛姫(俊恭院)、継室は近衛基前の養女(鷹司政煕の娘)・福君(琮樹院)。幼名は直七郎。 文政5年(1822年)6月13日、従兄にあたる徳川斉朝の養子になった。文政10年(1827年)8月15日、養父斉朝が35歳の若さで隠居したことにより、9歳で家督を相続した。 倹約令を出して尾張藩の財政の建て直しなどに尽力し、凶作に苦しんだ領民に救恤米を施したといわれる。しかし、天保7年(1836年)に福君の入輿の際に華美な行列を行ったことや、天保9年(1838年)に江戸城西の丸再建に際して9万両と木曾檜を献上したことなどにより、財政が更に悪化した〔工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』東京堂出版、2009年〕。また、無類の鳩好きで、江戸藩邸に数百匹の鳩を飼育し、全ての鳩に名前をつけており、世話役の藩士は苦しみ藩費も浪費した。餌代を誤魔化して不正を働く家臣もいた。侍読の石川魯庵は斉温を諌め、物に執着して志を失う義を申し立てたところ、斉温は即座に鳩を解き放ったという。斉温には諫言を聞き入れる素直さがあり、また家臣とともに講義を聞くほど学問好きであった〔小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X〕。 病弱の故をもって江戸藩邸に常住し、襲封後21歳で死去するまでの12年間、尾張藩領内に一度も入ることがなかった。 死去に際して実子がなく、異母兄の斉荘が養子となって家督を相続した。 == 官職および位階等の履歴 == ※日付=旧暦 *1822年(文政5年)6月13日、尾張藩主徳川斉朝の養子となる。 *1826年(文政9年)5月28日、元服し、父である将軍徳川家斉から偏諱を与えられ斉温と名乗る。従三位に叙し、左近衛権中将に任官。 *1827年(文政10年)8月15日、藩主となる。 *1830年(文政13年)4月18日、参議に補任。 *1831年(天保2年)12月1日、権中納言に転任。 *1837年(天保8年)8月28日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。 *1839年(天保10年)3月20日、薨去。法名は良恭院殿譲譽盛徳源僖大居士。諡は僖公。墓所は名古屋市東区筒井の徳興山建中寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川斉温」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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