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徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、清水徳川家第6代当主、のち水戸藩第11代(最後)の藩主。 第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ)。 初名は松平 昭徳。字は子明。号は鑾山。諡号は節公。子は徳川武定など。正仁親王妃華子の曽祖父。 == 生涯 == 嘉永6年(1853年)、江戸駒込の水戸藩中屋敷で誕生する。幼名は余八麿。生後半年から水戸にて養育されるが、幕末の動乱のため、文久3年(1863年)には再度江戸入りする。同年、京都で病に伏した兄・松平昭訓の看護の名目により上洛する。当初は長者町の藩邸に滞在するが、禁門の変の後は東大谷長楽寺、本圀寺に滞在する(これにより滞京中の水戸藩士は「本圀寺勢」と称される)。滞京中の佐幕活動は多忙を極め、禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣するなど、幼年ながらも幕末の動乱に参加している。 従五位下侍従兼民部大輔に叙任。第14代将軍・徳川家茂の死去に伴い、諱を昭武と改める。慶応2年(1867年)、清水徳川家を相続する。同時にパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられる。 慶応3年1月(1867年2月)に使節団を率いて約50日をかけて渡仏した。使節団の中には会計係として渋沢栄一、随行医として高松凌雲、通訳に山内堤雲がいた。ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪する。その間に、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。以後はパリにて留学生活を送る。 慶応4年(1868年)1月に兄である将軍・慶喜が大政奉還を行ったことを知り、使節団の立場は微妙なものとなる。3月、鳥羽・伏見の戦いの報がフランスの新聞に掲載され、随行していた栗本安芸守らは帰国し、昭武をはじめとする7名は残留した。程なく新政府から帰国要請が届くが、4月の段階では慶喜からこのまま滞在し勉学するように手紙が送られている。5月15日(8月)新政府よりの帰国命令書が届き、ついに帰国することとなった。滞在最後の思い出とするためか10日間、ノルマンディーのカーンやシェルブールを回り、ロワール川河口のナントまで旅す。パリに帰ると、長兄で水戸藩主・慶篤が死去したとの手紙が届いており、政情安定のために次期藩主に指名されることとなった。9月4日(10月18日)にマルセイユを出航、11月3日(12月6日)に神奈川に到着した。この間、水戸藩では藩士の分裂を抑えられず、弘道館戦争が勃発している。翌年には水戸徳川家を相続し、藩主に就任した。 明治2年(1869年)、版籍奉還により水戸藩知事となる(民部大輔を辞官)。北海道の土地割渡しを出願し、明治2年(1869年)8月17日に北海道天塩国のうち苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と北見国のうち利尻郡の計5郡の支配を命じられた。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により藩知事を免ぜられ、東京府向島の小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に暮らす。 明治7年(1875年)、陸軍少尉に任官する。初期の陸軍戸山学校にて、教官として生徒隊に軍事教養を教授している。明治8年(1875年)、中院通富の娘・栄姫(瑛子)と結婚。明治9年(1876年)にフィラデルフィア万国博覧会の御用掛となり訪米する。その後、兄弟の土屋挙直・松平喜徳とともにフランスに向かい、再び留学する。なお、前の留学から8年の間に、フランスは第二帝政から第三共和政へ移行している。明治13年(1881年)に留学先のエコール・モンジュを退学。同じくフランスに留学中の甥・徳川篤敬(長兄・慶篤の長男)と欧州旅行(ドイツ・オーストリア・スイス・イタリア・ベルギー)の後、ロンドンへ半年滞在し、翌年6月帰国した。 明治16年(1883年)1月に長女・昭子が生まれるが、翌月産後の肥立ちが悪く妻・瑛子が死去する。5月に隠居願を提出し、甥の篤敬に家督を譲った。翌年には戸定邸(千葉県松戸市)に移った。明治25年(1892年)、次男・武定が子爵に叙されて松戸徳川家を創設している。明治31年(1897年)、篤敬が44歳で死去したため、11歳で水戸徳川家当主となった圀順の後見となる。 明治43年(1910年)7月3日、小梅邸にて死去した。享年58。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川昭武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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