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徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。 == 生涯 == === 出生から後継者争い === 徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。母は側室の西郷局。母の実家・西郷氏は、。乳母・大姥局によって養育される。 同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。長兄・信康は秀忠の生まれた年に切腹している。次兄・秀康は豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。 天正18年(1590年)、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛して元服、秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗る。織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより、離縁となる。秀吉から、豊臣姓を与えられる〔賜姓は1597年説もあり。〕〔村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」、1996年。〕。 その後、中納言に任官し、「江戸中納言」と呼ばれる。文禄4年(1595年)には秀吉の養女・江と再婚する〔江は近江国の戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信長の妹市。江は天正14年から文禄元年頃に秀吉の養子・豊臣秀勝に嫁いでいたが、文禄元年に秀勝は死去していた。〕。 秀吉から、羽柴の名字を与えられる〔。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中、信濃国上田城攻めを行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと行軍の遅れから、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦に間に合わなかった。 9月20日に大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は「気分がすぐれない」として面会しなかった。翌日または3日後に面会したと言われている。 これには榊原康政ら家臣の仲介があったとされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川秀忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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