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徳川重倫 : ウィキペディア日本語版
徳川重倫[とくがわ しげのり]

徳川 重倫(とくがわ しげのり)は、紀伊紀州藩の第8代藩主
== 生涯 ==
延享3年(1746年)2月28日、第7代主・徳川宗将の次男として生まれる。幼名は久米之丞、のち岩千代。 宝暦5年(1755年)11月28日、元服して第9代将軍・徳川家重(第5代藩主・第8代将軍・徳川吉宗の長男)の偏諱を受けて重倫を名乗るとともに、従四位下・常陸介に叙任。
明和2年(1765年)、20歳のときに藩主に就任する。30歳のときに隠居、長男・彌之助は既に早世、次男の岩千代(のちの治宝)もまだ幼少であったため、支藩伊予西条藩の藩主であった叔父(宗将の弟)の松平頼淳(改め徳川治貞)に藩主の座を譲った。
晩年は剃髪して太真と号した。文政12年(1829年)6月2日に死去した。享年84。
紀州藩主としての治世は9年11か月であり、この間の江戸参府3回、紀州帰国4回で、紀州在国の通算は2年7か月と短く、さらに幕府より命ぜられた隠居期間は54年4か月と非常に長期となったが、この間の江戸参府と紀州帰国はなかった〔小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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