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徳川重好 : ウィキペディア日本語版
徳川重好[とくがわ しげよし]

徳川 重好(とくがわ しげよし)は、徳川御三卿の一つ清水徳川家の初代当主。
== 生涯 ==
延享2年(1745年)2月15日、第9代将軍徳川家重の次男として生まれる。幼名萬二郎。当初は松平姓を称した。
将軍となった兄の徳川家治宝暦10年(1760年)から明和7年(1770年)までに清水屋敷を11回、家治正室の五十宮も2回訪問しており、兄弟の仲は良好であったとみられる。しかし、家治治世の後半になると、一橋治済の待遇上昇とともに地位が逆転していった。安永8年(1777年)に将軍世子の家基が死去すると、治済の長子の豊千代(徳川家斉)が天明元年(1781年)に家治の養子となった。そして天明6年(1786年)に家治が死去すると、家治の最近親(家治の弟)の重好を差し置いて、家斉(家治の従弟の子)が将軍に就任した〔渡邉直子「『徳川実紀』に見る三卿の位置」2007年3月(『駒澤史学68』)〕。
天明8年(1788年)5月、御庭番高橋恒成清水徳川家に関して、「御取締り宜しからず候由」と報告書を記している。具体的には、家臣の長尾幸兵衛が清水家の財政を私物化していると指摘している。また『よしの冊子』では、長尾は3万両を田沼意次に献金し、重好を将軍職に就けようと目論んだと示唆している。
寛政7年(1795年)7月8日に死去した。享年51(満50歳没)。重好の死により、家重の血筋は断絶した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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