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徳球 : ウィキペディア日本語版
徳田球一[とくだ きゅういち]

徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年明治27年)9月12日 - 1953年昭和28年)10月14日)は、日本政治運動家革命家弁護士政治家衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代より戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。徳球の愛称で知られる。
==経歴==
沖縄県名護市出身。家業は印刷屋。「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。旧制沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)卒後、旧制第七高等学校に入学するも、教官の琉球出身者に対する差別に反発して退学、苦学して日本大学の夜間部を卒業、弁護士になった。1920年大正9年)、日本社会主義同盟に参加。1921年(大正10年)にソ連を訪問。1922年(大正11年)、非合法の日本共産党(第一次共産党)結成に参加。中央委員に選出される。1925年(大正14年)、1927年(昭和2年)にもソ連に渡った。1928年(昭和3年)の第1回普通選挙労働農民党から出馬(福岡第3区)したが落選、直後の2月26日に治安維持法違反で門司駅で逮捕された。これが直後の三・一五事件のはしりとなる。徳田はそのまま獄中で18年を過ごした。
第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)10月10日に、府中刑務所を訪れたフランスジャーナリストロベール・ギランによって発見され出獄。連合軍を「解放軍」と呼んだ。日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で書記長に就任。1946年(昭和21年)には中華民国から帰国した野坂参三と共に衆議院議員に当選(続いて中選挙区の東京3区より以後3期連続当選)。同年、従兄・耕作の未亡人である徳田たつ(旧姓金原)と結婚。
1950年(昭和25年)、徳田要請問題が発生し、証人喚問を受ける。コミンフォルムから批判を受け共産党が内部分裂(所感派の項を参照)。また6月に公職追放レッドパージ)され、7月に団体等規正令に基づく出頭命令を拒否したため逮捕状が出たため、地下に潜行した。同年10月、大阪港から中華人民共和国に亡命し、幹部による指導機関である北京機関を組織した。このとき、徳田は「安静にして余命4年」という健康状態であったが、この事実は幹部以外には秘匿された。徳田は引き続き党の全体方針決定をおこなうことが確認され、亡命先から地下放送の「自由日本放送」を通じて武装闘争方針を指示した。しかし、やがて北京機関内部では国際派との妥協を唱える野坂参三・西沢隆二らとの対立が表面化する。1951年(昭和26年)7月には徳田は自己批判をおこなっている。1952年(昭和27年)9月末に入院、まもなく意識不明の重体となった。1953年(昭和28年)、脳細胞血管の痙攣のため〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)19頁〕北京で病死。その死は1955年まで公表されなかった。同年9月13日に北京で開催された追悼大会は、3万人が参列した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kyuichi Tokuda 」があります。



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