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徳川将軍家[とくがわしょうぐんけ]
徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。 ==概要== 徳川将軍家は、慶長8年(1603年)に初代・徳川家康が征夷大将軍に就任してから、慶応3年(1867年)に第15代・徳川慶喜が大政奉還するまで、264年間にわたる江戸時代を通じて、征夷大将軍の職を世襲した家系である〔なお、朝廷の武官の職には、征夷大将軍の他に左右近衛大将などの「大将」職も置かれるが、武家については、大将職は将軍家の当主が独占した。他の大名家の当主が「大将」に任じられることはなく、武官の職でも中将および少将に任じられた。ただし、公家については従来通り、清華家や摂家の家柄の者が大将職に任じられた。〕。この間、日本の実質上の君主・支配者として、武家社会を含む日本社会全体の頂点に君臨した。 初代当主は江戸幕府を開いた徳川家康で、家康は慶長10年(1605年)に三男・秀忠に将軍職を譲って第2代当主とした(家康は大御所として実権は握っていたとされる)。秀忠は次男・家光(長男・長丸がいたが、既に早世していた)に将軍職を譲って第3代当主として、以後代々、徳川将軍家の長男が将軍職を世襲する原則を定めた。徳川将軍家の男子による将軍職の世襲を確立するため、歴代の当主は多くの側室を大奥に抱えて血統の保持に努めた。しかし、宗家はたびたび実嗣子を欠き、近親の分家や家康の子を祖とする御三家や御三卿から養子を迎えて家系をつなぐことが少なくなかった。計15名の将軍のうち、正室から生まれたのは家康・家光・慶喜の3人だけである。 最後の征夷大将軍となった第15代当主・徳川慶喜は、大政奉還の後に征夷大将軍を辞職し、一旦は兵を挙げたものの新政府に恭順し、謹慎した。さらに慶喜は隠居して、御三卿の一つ田安徳川家から徳川家達が養子に立てられ、徳川宗家の相続を許された〔慶喜は、隠居・謹慎の後、1902年(明治35年)には公爵を授けられ、徳川慶喜家を立てて初代当主となった。〕。第16代当主となった家達は、新政府により駿河・遠江・伊豆に70万石を改めて与えられて駿府(現: 静岡県静岡市葵区)に移住し、駿府の町を静岡と改名して静岡藩を立てた。明治2年(1869年)に家達は華族に列せられ、廃藩置県を経て、明治4年(1871年)に東京へ再移住し、1884年(明治17年)には公爵を授けられて、徳川宗家は徳川公爵家となった。その後、家達は、明治時代の終わりから昭和時代の初めに至るまで、長らく貴族院議長を務め、嫡子の第17代当主・徳川家正は、戦後、最後の貴族院議長を務めた。 2003年(平成15年)、第18代当主・徳川恒孝は、宗家の貴重な遺産を管理するため、財団法人(現: 公益財団法人)徳川記念財団を設立した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川将軍家」の詳細全文を読む
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