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徳田 毅(とくだ たけし、1971年5月30日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(3期)。医療法人徳洲会理事。 衆議院議員、自由連合代表を務めた、医療法人徳洲会創設者の徳田虎雄は父。徳洲会副理事長で薬剤師の徳田秀子は母。 == 来歴・人物 == 鹿児島県名瀬市(現奄美市)に生まれる〔本籍地は鹿児島県大島郡徳之島町〕。大阪教育大学附属平野小学校、名瀬市立金久中学校を経て、鹿児島高等学校を卒業。1991年4月に帝京大学法学部に入学したが5年在学して中退。2005年4月、帝京大学法学部に再入学するが、2007年に再び中退した。 1995年から父・徳田虎雄の個人事務所に私設秘書として勤務する。2002年からは公設秘書を務めたほか、徳洲会グループの医療用品卸売業・株式会社インターナショナル・ビジネス・サービス代表取締役社長に就任。 2003年に結婚し、媒酌人は亀井静香が務めた。2004年、医療法人徳洲会理事に就任。2004年から中間法人徳洲会副理事長、2005年から一般社団法人徳洲会副理事長、2009年から医療法人徳洲会常務理事及び一般社団法人徳洲会理事、医療法人聖山会理事。 2005年、父・虎雄が2002年頃から発症した筋萎縮性側索硬化症(ALS)の療養に専念するために政界引退を表明したため、代わって、毅が第44回衆議院議員総選挙に無所属(民主党推薦)で鹿児島2区から出馬し、初当選した〔なお、この選挙では打越明司が自民党の公認を得られず無所属で出馬し、自民党が元職の園田修光を擁立したため保守票が割れ、それが遠因で共に落選している。〕。同年、自由連合代表に就任する。2005年9月の内閣総理大臣指名選挙では自分自身に、翌2006年9月は安倍晋三(自由民主党総裁)に投票している。 2006年10月、鹿児島県庁で記者会見を開き、自身が代表を務める自由連合を離党する意向を表明。徳田の離党により所属国会議員数がゼロになった自由連合は政党助成法上の政党要件を喪失。自由連合の今後については父・虎雄に一任する考えを表明した。同年11月の沖縄県知事選挙では、自由連合は糸数慶子を推薦したが、毅は告示日の11月2日に自由連合を離党して自由民主党、公明党が擁立した仲井眞弘多を支援し、仲井眞が当選した。 2006年11月29日、自民党に「入党願」を提出。徳田の入党を認めたことについて、自民党鹿児島県連会長(当時)の宮路和明は同年4月の衆議院千葉7区補欠選挙、沖縄市長選挙における徳田の与党への協力を一因に挙げている。同年12月20日に改めて自民党に入党届を提出し、正式に自民党に入党した。これにより鹿児島県の衆議院小選挙区は、自民党が独占した。 2007年の第21回参議院議員通常選挙では保守王国の鹿児島県でも自民党が苦戦を強いられたが、自民党の加治屋義人が2664票の僅差で逃げ切り、再選された。加治屋は鹿児島全県では前回に比べて得票数を減らしたが、徳田の地盤である奄美市や大島郡では票を伸ばした。2008年6月5日、宏池会に入会。 2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、初めて自民党公認で鹿児島2区から出馬し、民主党公認で出馬した打越明司を下して再選。なお、打越は2005年の総選挙は無所属で出馬したため比例復活が出来なかったが、この選挙では重複立候補していた比例九州ブロックで復活し、初当選した。 2012年10月に宏池会を脱退し、前自民党総裁の谷垣禎一による勉強会「有隣会」に参加した。 同年12月に第46回衆議院議員総選挙で3選後、第2次安倍内閣の国土交通大臣政務官に起用されたが、「一身上の都合により」〔「徳田国土交通・復興政務官が辞任 「一身上の都合」『日本経済新聞』-2013/02/03〕〔「国交・復興政務官:徳田氏が辞任」 毎日新聞2013年2月4日〕〔国交相・復興相の徳田政務官が辞任 『とれまがニュース』-2013/02/04〕〔「徳田政務官が辞任」『時事通信』-2013/02/03〕2013年2月に辞任した〔 毎日新聞2013年2月4日〕〔【徳田政務官辞任】「泥酔状態で無理やり性的関係」と主張 当時19歳女性が提訴、1千万円で和解成立 1/2 2/2 産経新聞2013年2月6日〕。2013年11月12日には、親族が選挙違反事件で逮捕される事態となり、同月13日に自民党へ離党届を提出し、翌14日に離党が承認された〔「徳田毅衆院議員が離党届提出」 MSN産経ニュース2013.11.13〕。 2014年2月24日に議員を辞職することを表明し、議員辞職願を同日に提出、2月28日の本会議で了承された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳田毅」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Takeshi Tokuda 」があります。 スポンサード リンク
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