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徽典館 : ウィキペディア日本語版
徽典館[きてんかん]

徽典館(きてんかん)は、甲斐国山梨県)の学問所。現在の山梨大学の前身。甲府城下町の中心となる甲府城郭内(甲府市丸の内一丁目)に設置され、四書五経を中心とする朱子学や政道論が教えられた。「徽典」とは「舜典」『書経』に由来する。
所在する甲府市丸の内一丁目は甲府城ニノ堀で囲郭された郭内の武家地で甲府勤番士の屋敷が散在しているほか、西側には甲府勤番追手役宅、その南には薬園が所在している。徽典館の西には追手小路が通り、北側には甲府城追手門が所在し内堀で囲郭された内城に至る。近代には武家地が払い下げられ官公庁用地として開発され、徽典館の所在地には老舗旅館が開業している。
== 甲府徽典館の創設 ==

近世甲斐国では江戸時代前期に甲府藩が設置され、甲府徳川家柳沢氏など甲府藩主には文治主義を執り学問に親しんでいたが、歴代甲府藩主は在国することがなく国元における藩校の整備は遅れ、在番の武士階層では独学や私塾における教育が中心であった〔また、甲斐では庶民を対象とした郷校の整備も遅れ、武士階層と同様に独学や私塾、寺子屋による教育が中心であった〕。
享保9年(1724年)3月には、幕政における享保の改革に伴い甲府藩は廃藩となり甲斐一円は幕府直轄領化され、甲府城下町は甲府勤番支配による町方支配が行われ、城下には勤番支配2名と勤番士が在住した。江戸時代には商品経済の発達により教育を必要とする機運が高まり、天明年間には松平定信寛政の改革により学問振興が行われ、こうした背景のもとで甲府城下においても本格的な教育機関として学問所の設立が実施された。
徽典館の成立事情は明治16年の火災で関連文書が焼失しているため実態は明らかではないが、江戸の昌平坂学問所との関わりを示す『日本教育史史料』や明治期に編纂された書籍目録や学頭林鶴梁〔林鶴梁(1806年 - 1878年)は江戸から赴任した学頭で、一年間の甲府滞在中の様子が日記に詳しく記されている。『林鶴梁日記』は『山梨県史』資料編13上に収録。)〕や出身者の日記が残されている。それらの断片的な史料によれば、寛政8年(1796年)に甲府城代の甲府勤番師弟の教育を目的に甲府勤番支配の近藤政明(淡路守)と相役の永見為貞(伊予守)が設置した甲府学問所が前身とする。学問所は勝手小普請役の富田武陵(富五郎)を教授(のちに学頭)に起用して勤番役邸に開校する。享和3年(1803年)には甲府城追手門南に学舎が新築され庶民にも開放され、甲府学問所は武芸一般を教える講武所のほか、医術を教える医学所も設置されていた。大学頭林述斎(林衡)により「徽典館」と命名され、松平定信筆の扁額が掲げられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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