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志鳥栄八郎[しどり えいはちろう] 志鳥 栄八郎(しどり えいはちろう、1926年1月24日 - 2001年9月5日)は日本の音楽評論家。 東京府北豊島郡日暮里町(現・東京都荒川区日暮里)で毛筆製造業者の八男として生まれる〔志鳥栄八郎『志鳥栄八郎自伝 嵐が奏でる』p.36〕。旧制駒込中学校(現・駒込中学校・高等学校)在学中の同級生に大滝秀治がいる〔志鳥、p.98〕。文学と音楽に熱中して第一高等学校 (旧制)と慶應義塾大学予科の入試に失敗し〔志鳥、p.115-116〕、予備校生活を経て、1944年から旭電化工業に勤務〔志鳥、p.122〕。1945年3月10日の東京大空襲で実家が焼失したため、福島県石川郡石川町に疎開〔志鳥、p.12〕。1945年5月、召集令状を受け、二等兵として相模原の通信第一連隊に入営〔志鳥、p.12-14〕。敗戦後に復員し、1946年1月から日本造船に勤務〔志鳥、p.147〕。1949年、旺文社に転じ、1954年から『高校時代』編集部に勤務〔志鳥、p.178〕。旺文社勤務のかたわら、1952年から『レコード芸術』(音楽之友社)に海外盤試聴記を連載するようになり、音楽評論の道に入る〔志鳥、p.181-182〕。1955年2月に旺文社を退社し、フリーとなる〔志鳥、p.198〕。 酒好きで胃腸が弱かったため、整腸剤エンテロ・ヴィオフォルムを常用していたが、原材料のキノホルムの副作用により1968年から難病スモンを患い、視力低下や身体の激痛、痺れに苦しんだ〔志鳥、p.268〕。1992年、クラシック音楽興隆会を設立し理事長に就任〔志鳥、p.386〕。晩年は胃のポリープ、脳梗塞、硬膜下出血、腎不全などを患い〔志鳥、p.387〕、75歳で死去した。 ==外部リンク==
*クラシック音楽興隆会
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「志鳥栄八郎」の詳細全文を読む
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