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忠宣王(ちゅうせんおう、1275年 - 1325年)は高麗の26代目国王(在位1298年、1308年 - 1313年)。〔高麗史 卷三四 忠宣王世家 〕 第25代国王忠烈王と(、クビライの娘)との間の長子として生まれ、元の宮廷で育った。妃はクビライの曾孫、薊国大長公主、宝塔実憐。幼名は璋、蒙古名は益知礼普花(イジリブカ、、Iǰirbuka〔モンゴル語で「幼い牛」を意味する。〕)、名は璋。諡号は忠宣憲孝大王(太尉王)、廟号は憲宗。 *1291年 世子(特進上柱国高麗国王世子)として冊封 *1292年 趙妃が世子嬪に揀択されて入宮。 *1295年 8月忠烈王の代行後元に戻る *1296年 11月元の晋王甘麻刺の娘 宝塔実憐と婚姻 *1299年 趙妃誣告事件(薊国大長公主が趙妃を嫉み誣告)→忠烈王が復位 *1308年 瀋陽王に冊封後、忠烈王死去後に高麗王に冊封。 *1316年 瀋陽王を 世子〔 Wang Go(王)、ピンイン: wang2 gao3、モンゴル名: (完澤禿)、孫はToghtua Bukha()〕に譲位。 *1320年 吐蕃(チベット)に流されるが5年後に戻る *1325年5月 元国で死去。 ==関連事項等== *元_(王朝) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「忠宣王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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