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忠貞可汗[ちゅうていかがん] 忠貞可汗(ちゅうていかがん、拼音:Zhōngzhēnkĕhàn、? - 790年)は、回鶻可汗国の第5代可汗。氏は薬羅葛(ヤグラカル)氏、名は多邏斯(タラス)。可汗号はテングリデ・ボルミシュ・キュルグ・ビルゲ・カガン(Täŋridä bolmiš külüg bilgä qaγan)〔「天より授かりし誉れ高き賢明なるカガン」の意。〕で、唐より忠貞可汗の称号を加えられた。 ==生涯== 武義成功可汗の子として生まれる。 貞元5年(789年)12月、汨咄禄長寿天親毘伽可汗〔クトゥルグ・長寿天親・ビルゲ・カガン(Qutluγ 長寿天親 bilgä qaγan)の「クトゥルグ・ビルゲ・カガン」とは「幸を得たる賢明なるカガン」の意。〕(武義成功可汗)が薨去したため、子の多邏斯(タラス)が立ち、国人たちは彼を「泮官特勒」〔特勒(テギン、Tägin)とは、突厥や回紇における皇太子もしくは王子に与えられる称号。〕と号した。唐は3日間廃朝し、鴻臚卿の郭鋒に節を持たせて弔問させるとともに、多邏斯を冊立して愛登里邏汨没蜜施俱録毘伽忠貞可汗〔アイ・テングリデ・クト・ボルミシュ・キュルグ・ビルゲ・忠貞・カガン(Ay täŋridä qut bolmiš külüg bilgä 忠貞 qaγan)とは「月天の聖霊より幸を授かりし誉れ高き賢明なる忠貞カガン」の意。〕の称号を授けた。 貞元6年(790年)4月、忠貞可汗は少可敦の葉公主に毒殺され、忠貞可汗の弟が篡立して可汗となった。しかし、まもなく彼らも国人たちに殺され、忠貞可汗の幼子である阿啜(アチュル?)が立てられ、可汗となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「忠貞可汗」の詳細全文を読む
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