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恤救規則[じゅっきゅうきそく] 恤救規則(じゅっきゅうきそく)は、1874年から1931年までの日本にあった法令である。明治政府が生活困窮者の公的救済を目的として、日本で初めて統一的な基準をもって発布した救貧法である。明治7年太政官達第162号。全5か条。 === 成立の背景 === 1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古の大号令で、新政府は、幕府の失政で民衆の生活が苦しくなったことを難じ、自らの仁政への意欲を宣言した〔小川政亮「恤救規則の成立」262頁。〕。続いて困窮者・高齢者を救うための個々の施策をとったが、それは人心収攬のための「一時の権謀」にすぎず、短期間で止めてしまった〔吉田久一「明治維新における救貧政策」。〕。配慮が残されたのは兵火・天災の罹災者への一時的給付で、その実施は地方官に任された。〔小川政亮「恤救規則の成立」262頁。〕 廃藩置県がなされる1871年(明治4年)まで、新政府の民政が及ぶのは直轄地である府県だけで、藩は従来通り藩主(藩知事)が独自の法制度で統治した。諸藩の中には、民を撫育するという儒教的な目的による仁政として、貧窮者への食糧等の給与の制度を持つところがあった。一部の府県にも貧困対策に熱心な地方官がおり、府県独自の課税によって救貧政策を実施した〔吉田久一「明治維新における救貧政策」64-73頁。〕。ところが政府は公費(国費)の投入を徹底して避け、民費(府県の独自課税)による救済にも消極的な姿勢をみせた〔小川政亮「恤救規則の成立」267頁。〕。 罹災者を除く当時の窮民には、寡婦、孤独老人、孤児、障害者、重病者といった生計維持困難者のほかに、農村部と都市部にそれぞれ多数の貧困者がいた。これらのうち、多くの地方官が要請したのは貧農の救済であった〔小川政亮「恤救規則の成立」265-266頁。〕。幕末から明治初年にかけて激化する農民一揆に直面した府県と藩にとって、農民救済は単なる仁慈ですまない必要性を持っていた。新政府の側では、民心をつなぎ止める必要は理解しつつ、中央からの支出は避ける方向で一貫していた。ならば府県・藩が独自課税・独自規則で救済するよりほかないが、そうなると救済が不十分な近隣地方に不公平感を生むだけでなく、仁政の功績が地方官のものになって天皇の仁政にならないという危惧も持っていた〔吉田久一「明治維新における救貧政策」63-64頁。〕。これが廃藩置県を断行させた一因で、かつ、廃藩直後に恤救規則制定を進めた動機でもあった〔小川政亮「恤救規則の成立」267頁。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「恤救規則」の詳細全文を読む
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