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オンクパト
オンクパト〔東亜問題調査会編(1941)、25頁の表記によった。〕 は中華民国の政治家。モンゴル族。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党でも幹部をつとめた。後に汪兆銘政権(南京国民政府)に参加している。字は子栄。 == 事績 == 北京蒙旗師範学校を卒業。1912年(民国元年)、衆議院議員に選出され、あわせて中国同盟会に加入している。その後、孫文(孫中山)の護法軍政府に加わり、1921年(民国10年)、広東非常国会(護法国会)に出席した。〔新華網内蒙古頻道。〕〔徐主編(2007)、1185頁。〕〔劉主編(2005)、1933頁。〕後に北京政府に移り、大総統黎元洪の顧問も務めている。〔東亜問題調査会編(1941)、26頁。〕 1924年(民国13年)1月、オンクパトは中国国民党第1回大会に出席し、中央執行委員に選出された。翌月、同党察哈爾省臨時執行委員会籌備員に任ぜられている。1926年(民国15年)の第2回大会でも中央執行委員に選出され、1928年(民国17年)に中央執監委員となった。同年10月、故宮博物院理事に任ぜられ、11月には第1期立法院立法委員に選出されている(後に1930年10月からの第2期でも選出)。12月、蒙蔵委員会委員に任ぜられた。〔〔〔〔 1929年(民国18年)3月、国民党第3期中央監察委員に選出され、以後、第4期(1931年12月)と第5期(1935年11月)でも同様に中央監察委員となっている。1931年(民国20年)、国民政府委員に任ぜられる。1934年(民国23年)3月、蒙古地方自治政務委員会委員に任ぜられ、翌1935年(民国24年)5月、行政院駐北平政務整理委員会委員となった。〔〔〔〔 1939年(民国28年)8月、汪兆銘(汪精衛)に合流して(汪派)国民党中央委員に任ぜられる。11月にはイフ・ジョー盟(伊克昭盟)オルドス(鄂爾多斯)左翼後旗協理となった。汪兆銘政権成立後は、国民政府委員となっている。〔なおオンクパトが汪と合流したにもかかわらず、何故か重慶国民政府でも国民政府委員の地位に引き続き留められていた。重慶国民政府委員の地位からようやく罷免されたのは、汪合流から約2年半を経過した1942年(民国31年)1月のことである。〔〔1944年(民国33年)12月6日、病没。〔『朝日新聞』1944年12月9日。〕享年56。
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