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恭仁京(くにきょう、くにのみやこ)は、奈良時代の一時期、都が置かれた山背国相楽郡の地。現在の京都府木津川市加茂地区に位置する。大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とも。 1957年7月1日「山城国分寺跡」として、国の史跡に指定された。その後の学術調査の進展に伴い、2007年2月6日付で史跡指定範囲が拡大され、指定名称も「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」に変更された。 == 概要 == 藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。 741年(天平13年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。 748年(天平18年)恭仁宮大極殿が山城国分寺に施入された。 宮は平城宮を簡略化した程度で、南北750メートル、東西560メートルの南北に長い長方形であった。朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた。西側は狭い谷間、東側は木津川の氾濫原によって宮や京の造営が制約され、全体的に小規模であったとみられ、条坊制を示す遺構も確認されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「恭仁京」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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