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恭帝侗 : ウィキペディア日本語版
恭帝トウ[きょうてい とう]

恭帝侗(きょうてい とう)はの第4代皇帝。の高祖李淵に擁立された異母弟の楊侑とは異なり、唐を正統とする立場から後世からは正統な皇帝とみなされていない。元号を皇泰としたため、皇泰主とも史称される。
== 生涯 ==
元徳太子楊昭の次男。大業3年(607年)に祖父の煬帝から越王に立てられた。煬帝が巡幸に出る度に、東都洛陽の留守を任されていた。大業9年(613年)に楊玄感の乱が起こると、戸部尚書の樊子蓋とともに洛陽を守備した。乱が平定されると、東都留守のまま高陽郡太守に任じられた。大業13年(617年)に煬帝が江都に下ると、段達元文都韋津皇甫無逸らとともに洛陽を守った。洛口倉に拠った李密がしばしば攻勢をかけ、王世充らを派遣して一進一退を繰り返した。大業14年(618年)に煬帝が宇文化及らに殺されると、段達らに擁立されて即位した。
即位に功のあった段達が礼部尚書・右翊衛大将軍、王世充が吏部尚書・左翊衛大将軍、元文都が内史令・左驍衛大将軍、盧楚が内史令、皇甫無逸が兵部尚書・右武衛大将軍、郭文懿が内史侍郎、趙長文が黄門侍郎にそれぞれなった。ときに洛陽の人々は朝廷を牛耳る段達らを「七貴」と称した。七貴の仲は険悪で、元文都・盧楚・郭文懿・趙長文は王世充に殺害され、皇甫無逸は長安に逃れて唐に帰順した。
王世充が李密を破って実権を完全に掌握すると、皇泰2年(619年)5月には恭帝は王世充に禅譲することを余儀無くされ、国公に封ぜられた。翌月、邪魔に思った王世充によって服毒自殺を命じられた。楊侗は「生まれ変わっても皇帝の家には生まれ変わらぬように」と遺言し服毒するが、死ななかったために縊り殺された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yang Tong 」があります。



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