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恭聖仁烈楊皇后 : ウィキペディア日本語版
恭聖仁烈皇后
恭聖仁烈皇后(きょうせいじんれつこうごう、1162年 - 1233年12月7日)は、南宋寧宗の2番目の皇后。姓楊 桂枝(よう けいし)と称した。
== 生涯 ==
初め後宮に入り、女伶〔「伶」には楽人、俳優、召使の意味がある。〕を務めた。会稽の人というが、この当時は身分や姓名の記録がなかった。美貌で多芸多才、書にたくみで、絵画もよくした。平陽郡王趙拡(のちの寧宗)に見初められ、寧宗が即位した翌年(慶元元年、1195年)、太皇太后呉氏から寧宗に妃嬪として与えられ、平楽郡夫人に封ぜられた。
寧宗にもっとも寵愛され、慶元3年(1197年)に婕妤に上った。この頃、楊次山およびその姉妹の楊蘭枝なる会稽人の姉妹を自称し、「楊桂枝」の名が記録された。さらに婉儀(嬪)、次いで貴妃に上った。韓皇后(恭淑皇后)が崩御すると、曹美人と皇后の座を争った末、嘉泰2年12月(西暦1203年)に皇后に立てられた。
曹美人を皇后に強く推した韓侂冑(韓皇后の同族)は楊氏の恨みを買い、史弥遠開禧3年(1207年)に韓侂冑を殺害した際、楊氏はこれに協力している。
楊氏は2人の男子を産んだが、みな夭折した。他の男子もみな夭折しており、寧宗は従兄弟の沂王趙抦の嗣子であった趙竑を自身の養子とした。しかし趙竑は楊皇后らの専権を憎み、史弥遠の追放を画策した。嘉定17年(1224年)に寧宗が危篤状態になると、楊皇后は趙竑を廃し、燕王趙徳昭の9世孫の趙昀(のちの理宗)が太子に冊立された。
理宗が即位すると皇太后となり、垂簾聴政した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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