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悟り(さとり)は知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い、覚りとも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得をいう。 サンスクリットでは日本語の「理解」「気づき」「通達」などの意味に相当する単語はあるが、日本の仏教用語として多用される動詞の「悟る」、もしくはその連用形である「悟り」に相応する単語は存在しない。インドの仏教では、彼岸行とされる波羅蜜の用法を含めれば、類語を集約しても20種類以上の<さとり>に相当する語が駆使された〔「梵和大辞典(鈴木学術財団)」を参照〕。そうした豊富な宗教用語に対して、漢訳では造語を以って対応する一方〔意味の訳出のみならず音訳(音写)を加味する音意訳が優先されたが意訳も多い。また、ひとつのサンスクリットに対して複数以上の訳語があることも珍しくない。〕、複数の意味を包含する訳語も用いられた。 例えば、仏教伝来以前から中国にすでに存在していたと思われる「覚悟」という漢語は、サンスクリット語やパーリ語の数種類以上の単語の訳として用いられている〔以下、サンスクリット語・パーリ語の対照は「広説佛教語大辞典 中村元著(東京書籍)」等による。〕。その訳意は今日の「覚悟」の意味と同じく、「理解」「通達」から「警告」「目覚め」までと幅広い。ちなみに、日本で編纂された三蔵経である大正新脩大藏經には三万数千の「悟」という漢字表記がみられるが、うち「覚悟」は二千数百を占めている〔以下、使用頻度は「大正新脩大藏經テキストデータベース2012版」による。〕。 また、釈迦の降魔成道に付随して表現される「悟りを開く」の元となった「開悟」という漢語についてみてみると、「開悟」は大正新脩大藏經に約千七百みられ、数種類のサンスクリットの訳として当てられている〔「開悟」が仏教伝来以前から中国に存在していた漢語かどうかは不明である。〕。その原意は「覚悟」の場合と違って比較的狭量であり、いずれのサンスクリットも「仏地を熱望する」など、彼岸行の始まりを示唆する婉曲な表現の複合語(熟語)である〔「広説佛教語大辞典 中村元著(東京書籍)」等ならびに「梵和大辞典(鈴木学術財団)」を比較参照。〕。漢訳の「開悟」はこれに倣った意訳である。 「覚悟」や「開悟」の場合と同様、「悟」と表記された他の漢訳も底本のサンスクリット語が同一種類であることはむしろ稀である。逆に一つの原語が複数種類以上の漢訳語を持つケースも珍しくない。大正新脩大藏經に出現する三万数千の「悟」という漢字は、多くは「覚悟」のように二字熟語の一部として用いられており、日本の仏教で多用される「悟る」もしくはその連用形「悟り」という、曖昧かつ自動詞的な意味で用いられていることはまずない〔以下、「大正新脩大藏經テキストデータベース2012版」を検証せよ。〕。 「菩提」を悟りとするのも日本の仏教だけで、漢訳ではサンスクリットの「बोधि bodhi (ボーディ) 」を「悟」と訳した例は知られていない。bodhi の漢訳はもっぱら「菩提」であって、新訳で「覚」などと漢訳される場合がある程度である〔「広説佛教語大辞典 中村元著(東京書籍)」、「禅学大辞典(大修館書店)」等を参照。〕。では、日本の仏教では、何故「悟る」や「悟り」という言葉が多用されるようになったのかと言う問題が生じるが、それは中国の禅宗が「悟」という用語を多用したことが要因の一つとして推定されよう。 少なくとも、中国南宗禅の鼓吹派が喧伝した「頓悟」が誤解を交えながら日本にまで伝播し、これが日本仏教の「悟り」や「悟る」という表現の混乱に拍車をかけたことは間違いない。中国の禅宗は「悟」をもっぱら「廓然と大悟した」などの表現で用いるが、これは修道の証得を示すものである。中国禅の六祖とされる慧能も頓漸の別は修行の遅速の問題に過ぎないとしていることから、慧能以降に禅風鼓吹の標語「(頓)悟」が混乱を引き起こしていったと考えられる。 日本の仏教に限らず漢訳仏教圏やその影響を受ける地域では、釈迦は「悟」もしくは解脱を求めて出家したとするのが通教的な教えとなっているが、阿含部の大般涅槃経(大パリニッバーナ経)には、釈迦は善なるものを求めて出家したと釈迦自らが語る形式で説かれている。 == 各宗教における悟り == === 仏教 === サンスクリットの「बोधिसत्त्व bodhisattva ボーディ・サットヴァ 」の音写漢訳である「菩提薩埵(通常は菩薩と表記される)」〔大正新脩大藏經では、阿含部を除く全ての経・論・律部のいずれかのテキストに「菩提薩埵」の語が出現する。しかし、「菩薩」が三十数万例みられるのに対して、「菩提薩埵」は約千二百例みられるに過ぎない。漢訳の際に菩薩と簡略されたケース、底本がすでに「bot-sat」と簡略されているケースなども含めて、その使い分けについては今後の研究対象と成り得よう。〕 であることを止揚した者を「buddha ブッダ」と呼び、漢字で音写し「仏陀」「仏」としたり、「覚者」と意訳したりする〔なお、大乗仏教は仏(仏乗)と大乗を区別する傾向がある。これは大日如来を尊崇する密教で顕著になる。「仏」と「如来」が明らかに使い分けられている経典は少なくなく、法華経では「一仏乗」と「大乗」の使い分けも見られる。〕。 このように悟りの意味の違いが宗教・宗派の違いであるということもできるが、般若経などでは、「覚り」と「悟り」も別のものとして使い分けられている。大乗経典ではさらに、それ以前の教義と峻別するために「覚り」を超えるものとして「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、原語Anuttara samyaksaMbodhi)」「無上正等菩提(むじょうしょうとうぼだい)」を措定している。いずれも、現代日本の仏教界(この記事を含む)では混乱して使われてしまっているが、真理(法)に目覚めること、迷いの反対の意で用いられる傾向があるという点では、ある程度の共通性は見られる。 釈迦(しゃか)の辿った道筋から見てみると、釈迦は出家前にすでに阿羅漢果を得ていたとされるが〔出典は明記されていないが「禅学大辞典(大修館書店)」には、釈迦族の農耕祭のときに四禅の相を現したと記述されている。同辞典の旧版では農耕祭で相撲が催されたときとなっている。通教的には四門出遊に抽象されると考えるだけで、明示的に説かれた経論は知られていない。〕、出家後も含めて多くの哲学者や宗教家の教えを受け、苦行にも専念したが悟りを得られなかった〔出家後はアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマ・プッタに師事したとされる。〕。そこで今までの修行法をすてて、尼連禅河(にれんぜんが)で沐浴し身を清め、村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)の供養(くよう)を受けて河を渡り、対岸のピッパラ樹の下で降魔成道を果たした〔通教的には滅受想定という。〕。釈迦は降魔成道の後、梵天勧請を受けて鹿野苑(ろくやおん)で初転法輪を巡らした。 釈迦が降魔成道を遂げて悟りを開いたとされる蠟月(十二月)八日は、今日でも降魔成道会として仏教寺院の年中行事の一つとなっている。 但し、三明については諸説あって通説と呼べるものはなく、十二縁起(十二因縁)とも関連する「縁起」に纏わるものであるとする説や、三明にさらに三智が加わるとする三明三智(六通)説なども存在する。 部派仏教の旧訳(くやく)ではサンスクリット語「vitarka」を「覚り」と訳した。vitarkaは「尋」とも訳し、対象を推しはかって分別する麁(あら)い心の働きをいう。一方、細かい心の働きを「vicaara」(旧訳では観(かん)、新訳では伺(し))といい、両者は対になって用いられる。この両者はともに定心(じようしん)を妨げるが、禅定の深まりによって消滅する。一方、大乗経典では「bodhi」を「菩提」と音写訳せず、「覚り」と意訳する新訳がある。これは覚りの智慧を表すものである。古くは「道(どう)」「意」「覚意」などとも意訳された。 初期仏教から部派仏教あたりまでは、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践された。仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫(ぼんぶ)が煩悩(ぼんのう)に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻(りんね)を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない、その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する。これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない。 この悟りの境地を「涅槃(ねはん)」といい、それは「寂静(じゃくじょう)」であるとされる。煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということである。パーリ語本の大般涅槃経(大パリニッバーナ経)には、釈迦は沙羅樹林で入滅し涅槃に入ったと説かれている。また、悟りを求める心を菩提心という。悟りを求める点では部派仏教も大乗仏教も共通であるが、自分のさとりを追求する部派仏教の場合、声聞(しょうもん)は四諦(したい)・八正道の教えを聞いて修行し、縁覚(えんがく)は十二因縁を悟ってそれぞれ解脱するとする。 大乗仏教では自分の悟りは他人のさとりを前提に成立するという立場から、六波羅蜜(ろくはらみつ)のうち利他行を実践する菩薩行(ぼさつぎょう)を強調する。悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されており、活動していくことに悟りの意味を求めているのが、大乗以降の仏教における菩薩の特徴である。〔菩薩が何を悟るかについて明示された経論は知られていない。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「悟り」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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