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第1特殊任務部隊(1st Special Service Force)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍およびカナダ軍が共同で編成したコマンド部隊である。悪魔の旅団(The Devil's Brigade)、黒い悪魔(The Black Devils)、黒い悪魔の旅団(The Black Devils' Brigade)、フレディの運び屋(Freddie's Freighters)といった通称でも知られる。1942年、アメリカ合衆国モンタナ州ヘレナからほど近いにて結成され、アリューシャン方面の戦い、イタリア戦線、南仏侵攻などに参加し、1944年12月に解散した。 現在のアメリカ軍およびカナダ軍の特殊部隊(グリンベレー、)は、第1特殊任務部隊の伝統を受け継いでいる。 ==背景== に所属する科学者ジェフリー・パイクは、冬季戦において敵後方での特殊任務に従事する少数精鋭の特殊部隊の編成を構想していた。これはすなわち、敵勢力下のノルウェー、ルーマニア、アルプス山脈に対し、海上ないし空から侵入して水力発電所や油田などの重要施設に対する破壊工作を遂行するコマンド部隊であった。当時、ノルウェーのには、ナチス・ドイツが核兵器開発に利用している重水工場があった。また、ノルウェー国内における電力消費のうち49%を賄っている大型発電施設もあり、これを破壊しノルウェーから枢軸軍を撤退させることができれば、ソ連邦赤軍と連合国軍の合流も実現しうると考えられていた。そしてルーマニアのプロイェシュティにはドイツ側の石油消費の1/4を賄う大型油田があり、イタリアにはドイツ南部における産業の電力消費のほとんどを賄う水力発電所があった。パイクはこの種の部隊を運用する場合、雪中行軍の際に兵員および装備を速やかに運搬しうる装軌車両が必須だと主張していた。 1942年3月、パイクは「プラウ計画」(Project Plough)と名付けたアイデアを合同作戦司令部司令官ルイス・マウントバッテン卿に提案した。これは連合軍コマンド部隊をノルウェーのヨステダール氷河周辺の山岳地帯へ落下傘で降下させ、現地のドイツ軍部隊に対するゲリラ戦を展開するというものであった。また、このコマンド部隊には装軌式の雪上車が配備されることとなっていた。パイクはこうした部隊が氷河という地域では無敵であること、排除を試みるドイツ軍部隊の大多数をその場に拘束できることなどを訴え、マウントバッテンを説得した。 しかし、合同作戦司令部および英国産業界からの要望を考慮した結果、1942年3月のチェッカーズ会議(Chequers Conference)において、この計画の実施をアメリカ合衆国に委託することが決定された。米陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将もプラウ計画の実施に同意した。1942年4月、既存の装軌式雪上車の中には適した車輌が見つからなかった為、合衆国政府から各自動車メーカーに新型雪上車設計の打診が行われた。最終的にスチュードベーカーが設計したT-15輸送車(T-15 cargo carrier, 後の)がプラウ計画用の雪上車に選ばれた〔。 1942年5月、米陸軍参謀本部作戦部の中佐がプラウ計画のコンセプトに関する論文の精査を行い、いくつかの問題点からプラウ計画が大失敗に終わるであろうと予想した。すなわち、計画の目標や要求される人員・物資がいずれも非現実的である点、少数の「エリート部隊」が地域を確保したとしても以後の防衛において極めて不利が強いられる点である。また、任務遂行後の具体的な救出手段が用意されていない点、ノルウェーまで人員を輸送できる航空機を保有していない点も指摘し、少人数の精鋭部隊を送り込んでもリスクに見合うだけの戦果は期待できず、代わりに大規模な戦略爆撃を実施するべきだとフレデリックは結論付けた〔。 しかし、既にイギリス軍上層部と作戦実施の方向で合意しており、またアメリカ軍がヨーロッパ戦線に進出する絶好の機会と見なされていたため、マーシャル大将や作戦部長ドワイト・D・アイゼンハワー少将はその後もプラウ計画の準備を推し進めた。マーシャルやアイゼンハワーはプラウ計画がドイツに大打撃を与える唯一の手段だと信じており、これを実施することで対独戦を速やかに完遂し連合国軍の戦力を太平洋戦線に集中させたいと考えていたのである〔。 最初に指揮官候補として選ばれたのは中佐だった。しかし、ジョンソンはパイクの計画に懐疑的で、マウントバッテンやアイゼンハワーとの会議を経て、この要請を辞退している。その後、マウントバッテンの提案を受け、アイゼンハワーはフレデリックを指揮官に任命した。彼にはプラウ計画実施に向けた部隊の編成および指揮が命じられ、この際に大佐へと昇進している。1942年7月頃までに、フレデリックは口出しをさせないようパイクを計画から遠ざけた。なお、指揮官を辞退したジョンソン中佐はの連隊長に就任した。 フレデリック大佐には、部隊編成に必要な機材・装備や訓練施設などが優先して割り当てられた。当初、この冬季戦を想定した特殊部隊にはアメリカ、カナダ、ノルウェーの軍人が均等な割合で配属される予定だった。しかし、ノルウェー軍人が十分に集まらなかった為、アメリカとカナダの軍人を半数ずつという形で部隊が編成されることになった。 1942年7月、カナダの国防相はプラウ計画へのカナダ将兵697人の参加を承認した。当初、彼らを集める名目は防諜上の理由から(1st Canadian Parachute Battalion, 1CPB)なる部隊を編成する為とされていた。しかし、直後に訓練教育部隊として同名称の大隊が実際に設置されることとなり、秘匿名称は第2カナダ落下傘大隊(2nd Canadian Parachute Battalion, 2CPB)に改められた。なお、カナダ陸軍における正式な部隊名としては1943年4月から5月まで第1カナダ特殊作戦大隊(1st Canadian Special Service Battalion)が使われ、2CPBという名称は非公式にしか使われなかった。彼らの給与は引き続きカナダ政府から支払われたが、制服、装備、食料、駐屯地、および駐屯地までの旅費などは全てアメリカ政府が提供した。服務規程や礼式はカナダ軍のものが引き続き使われた。部隊全体の副隊長を務めていたカナダ将校マックイーン中佐が落下傘降下の訓練中に足を骨折した後、部隊における最高階級のカナダ将校は第2連隊長のドン・ウィリアムソン中佐(Don Williamson)となった。アメリカ側の将兵は、およびの将校らによって選ばれた者たちだった。隊員募集の告知は南西部および太平洋沿岸に駐屯する全ての部隊で行われた。この告知文には、「独身者。21歳から35歳。レンジャー、木こり、猟師、探鉱者、探検家、狩猟監視員などの出身者が好ましい」といった条件が記載されていた。志願者の中から選びぬかれた者たちには、機密保持のために「落下傘部隊員に選ばれた」と伝えられていた。彼らを輸送する列車はやはり機密保持のために窓が黒塗りされており、ヘレナで下車した時でさえほとんどの兵士は自分がどこにいるのかわからなかったという。 新たな特殊部隊は3個連隊から構成されていた。各連隊は中佐を指揮官として、32人の将校と385人の下士官兵が所属した。連隊は2個大隊から、大隊は3個中隊から、中隊は3個小隊から、小隊は2個分隊からそれぞれ構成された。 フレデリックは高級将校でありながら、しばしば最前線で作戦の指揮を執った。例えばアンツィオ橋頭堡の作戦では、夜間偵察中に地雷が爆発し、部隊がドイツ軍の機銃掃射に晒された。この時、フレデリックは自ら前線に現れ、負傷者の救出を援護したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「悪魔の旅団」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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